ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第七回 「越年越冬闘争」の現場からⅡ

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。「越年越冬闘争」の全日程に参加した著者は、そこで出会った路上生活者たちから徐々に話を聞かせてもらうことになる。山谷へ辿りついたそれぞれの人生を紐解き、彼らの日常生活を追ってみると……。

 

山谷の画家

 
 私は「越年越冬闘争」の全日程に参加することになった。この闘争は「山谷越年越冬闘争実行委員会」が主催で、委員会の母体は「山谷争議団」と呼ばれる新左翼系の組織である。2018年12月29日から1月4日までの1週間、共同炊事を中心とした毎年恒例の行事で、委員会のメンバーのほか、野宿者、日雇い労働者、生活保護受給者、一般の支援者、学者、ジャーナリストら200人ほどが参加する。この期間の前半、私は共同炊事の準備で野菜を切ったり、荷物を運んだり、薪作りなど活動の手伝いを中心に動いたが、年明け以降は、参加者たちからも徐々に話を聞かせてもらった。
 最初によく話をするようになったのは、「山谷の画家」と呼ばれるセイタロウさんだ。白く長い顎鬚を蓄え、頭には黒いバンダナ、腰には古びた商人前掛けを着け、小柄ながら、その風貌は独特の存在感を放っている。山谷に通い始めておよそ40年、その間にセイタロウさんが描き続けた作品は1千枚を超え、埼玉県の自宅兼アトリエに保管されている。1枚の大きさは1畳から3分の1畳が中心。以前は、委員会の活動拠点となる山谷労働者福祉会館でも個展が開かれた。
  
ヤマ王とドヤ王 第7回1
埼玉県にある自宅兼アトリエにて。まるで仙人のような風貌のセイタロウさんは、これまで描いた墨画を解説してくれた(撮影:水谷竹秀)

 
 セイタロウさんは、平成元年(1989)に着工した同福祉会館の起工式や建設過程の様子を皮切りに、いろは会商店街を行き交う人々、酒を酌み交わす人々、路上で眠る人々など、昭和から平成にかけての山谷の日常風景を切り取り、墨画にしてきた。特に人々の表情は、山谷に通い詰めたセイタロウさんならではの観察眼でとらえている。そこに生きる人々が持つ目や仕草、姿勢などが的確に反映され、「哀愁」や「もの悲しさ」といった紋切り型の言い回しでは表現できない世界観が広がっている。
 
ヤマ王とドヤ王 第7回2
 
ヤマ王とドヤ王 第7回3
スカイツリーを背景に行われた元日の餅つきを描いた作品(写真上)と、日雇い労働者の表情を見事にとらえた作品(写真下)

 
 セイタロウさんは、正月に行われた餅つきで、隅っこに1人、こっそり筆を動かしているような人だ。年齢を尋ねても「そんなことはどうだっていいんだよ」と、答えない理屈をああだこうだと説明してくるが、愛嬌があって憎めない性格でもある。年齢は70代とみられる。
 セイタロウさんと山谷の関わりは、青山学院大学大学院で神学の勉強をしていた20代前半の頃に溯る。日本キリスト教団山谷伝道所を開設した中森幾之進という牧師が、開設資金としてカンパを募るため、青学の研究室を訪れた際に彼と会った。その後、彼が亡くなったと聞き、山谷伝道所に足を運んだのがきっかけだ。以来、かの地に生きる人々とつながりを持つようになった。
 そんなセイタロウさんと話をしていると、長年にわたる山谷の変遷を見つめてきたからか、時にハッとさせられることがある。たとえばこんな言葉を投げ掛けられた時だ。
「あんたは取材されてるんだよ!」
 私はその意味が分からなかったので、尋ねた。
「周りのみんなに対して、どうして山谷にいるのかを知りたいんでしょ? ということは、あんたも周りからそう思われているってことだよ」
 なるほどと頷き、メモを取ろうとした途端、再び威勢のいい声が飛んできた。
「そんなのメモに取らなくていい。頭にたたき込むんだよ。書かなきゃ覚えられないぐらいだったらそれだけのもんだ」
 このやりとりから私は、生活保護受給者の男に以前、絡まれた苦い経験を思い出した。場所は玉姫公園近くの路上。皮ジャンを着ていた50代半ばぐらいのその男は、数人の仲間たちと座り込んで酒盛りをしている最中で、うち1人は酔いつぶれて嘔吐を繰り返していた。そこへ立ち寄った私が取材で話を聞かせて欲しいと伝えた途端、男は大声で怒鳴り始めたのだ。
「俺はあんたらジャーナリストの興味で生きているんじゃねえよ。俺らはギリギリのところで踏ん張ってんだよ。それに人のことを聞くばかりじゃなく、自分のことも言えよ!」
 酔っ払っているとはいえ、いきなり核心を突かれた。私は山谷を取材の場に選んだ経緯などを説明したが、すっかり酩酊しているのか、説明の途中で遮られる。挙げ句の果てには、凄むような表情でこう突っぱねられた。
「面白いなこの話、という感覚でいるんだったら今すぐ帰れ!」
 これに対してうまく立ち回れなかった私は、忸怩(じくじ)たる思いを禁じ得なかった。確かに彼らは私の興味の対象として生きているわけではない。ただ、書き手の立場から取材という行為について言わせてもらえば、基になっているのはやはり興味や好奇心ではないか。仮にそれがなければ、何を根拠に取材という行為が成立するのか。取材を始める前から正義感や使命感が生まれるというのにも無理がある。だとすればやはり、興味や関心といった心的作用が取材へと背中を押すことになるだろう。問題は、それを裏付ける理由が説明できるかどうかだ。「大義名分」や「動機」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。特にノンフィクションは、書き手の動機が書かれているか否かが、作品の明暗を分けるような気がする。山谷で取材を続けていると、そんな原点に立ち返る瞬間が、ふと向こうからやって来る。
 

◎編集者コラム◎ 『ザ・プロフェッサー』著/ロバート・ベイリー 訳/吉野弘人
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