「推してけ! 推してけ!」第41回 ◆『喫茶おじさん』(原田ひ香・著)

「推してけ! 推してけ!」第41回 ◆『喫茶おじさん』(原田ひ香・著)

評者=永江 朗 
(書評家)

喫茶店は人を哲学者にする


 喫茶店巡りをする中年男の話である。

 松尾純一郎は57歳、無職。あちこちの喫茶店に入っては、コーヒーを飲み、ケーキを食べる日々である。飲み物はコーヒー以外のこともあるし、ときにはサンドイッチなどをつまむ。

 のんきな話かと思いきや、実はそうでもないことが読み進めるうちに分かってくる。

 純一郎は大手ゼネコンに勤めていたが早期退職した。退職金を元手に喫茶店を始めたものの、うまくいかず半年で潰してしまった。そんなわけでただいま求職中。友人知人に声をかけて、再就職先を探している。就職活動しながらの喫茶店巡りなのである。

 一人娘の亜里砂は大学入学と同時に家を出ている。もともと喫茶店開業に反対だった妻の亜希子も、家を出て娘のもとへ行ってしまった。純一郎、ひとりぼっちなのである。

 今日もひとりで喫茶店に入る。コーヒーを飲みながら自分の来し方行く末を考える。すてきな店内を見回して、自分の店もこんなふうにしたかったと思う。

 純一郎はいろんな人から「何もわかってない」といわれる。娘の亜里砂からも前妻の登美子からも、かつての同僚やバイト学生からも。しかし、何をわかっていないのかがいまひとつわからない。

 自分は何をわかっていないのか、それを知ろうとする小説でもある。ソクラテスは、自分は知らないということを知っている(無知の知)といったけど、自分が何をわかっていないのかを知るのは難問だ。喫茶店は人を哲学者にする。

 就職活動と喫茶店巡りの合間に、純一郎はいろんな人に会う。誰にもそれぞれの人生があり、喜怒哀楽があり、山もあれば谷もあることを知る。順風満帆に見える表層だけが人生ではない。しかし、ケーキの甘さとコーヒーの苦さや酸味がお互いを引き立てるように、人生だってハッピーの連続だけじゃないから面白いのかもしれない。

 ところで、コーヒーというのはなかなか奥が深い飲み物で、同じ種類の豆でも、焙煎度合いやいれ方、お湯の温度などで、味や香りは大きく変化する。そのあたりの蘊蓄を語り出すときりがないのだが、この小説はそちらにあまり深煎り、じゃなかった深入りしない。そこがいい。小説の冒頭で純一郎は喫茶店のマスターに知ったかぶりの質問をする。そして恥ずかしい思いをする。半可通な蘊蓄はシャットアウト。そのかわりケーキ類や食事メニューについて詳しく描写されている。これが実にうまそうなのだ。

 ぼくも純一郎と同じく甘いものが好きである。しかし、残念なことにアレルギーがあって、生クリームとチーズは食べられない。だから純一郎があちこちで食べるケーキやチーズを使った料理の描写を読むたびに、うらやましくてたまらない。いつかアレルギーが治ったら食べまくるぞ、と思うのである。

 純一郎が訪れる店の名前は出てこないが、モデルになった店があるようだ。文章だけで店の特徴や雰囲気がしっかりと伝わってくる。読んでいて「あの喫茶店だな」と見当をつけるのも楽しい。「しばらく行ってないな。また行きたいな」と思う。その店に行ったことがない人でも、だいたいの位置とメニューなど特徴はかなり具体的だから、うまく検索すれば探せるだろう。純一郎の足跡を訪ねる喫茶店巡りなんていうのも面白いと思う。

 ぼくがライター兼編集者になったとき、ベテラン編集者に教えられたのは、打ち合わせや取材に使えそうな喫茶店をたくさん知ることだった。新宿、渋谷、池袋、銀座、神保町など、その街ごとに。場所がわかりやすくて、落ち着いて話ができて雰囲気のいい店。食べログどころかネットもない時代だったから、自分の足で歩いて探した。

 作家から教えてもらうことも多かった。銀座のポーラにあったカフェは池澤夏樹さんに、ワシントン靴店にあったカフェは片岡義男さんに、表参道の大坊珈琲は堀内貴和さんに教えてもらった。渋谷のマックスロードは誰に教えてもらったのだったか。どれもいい店で、その後はほかの作家との打ち合わせや取材にも使ったし、ときどきひとりでコーヒーを飲んだ。残念ながらどの店もなくなってしまった。

 純一郎もいうとおり、喫茶店巡りというのはいい趣味である。コーヒーとケーキか軽食をつけても金額はさほどでもない。雰囲気のいい空間で、おいしいものを味わいながらゆっくりすごすなんて、最高に贅沢な時間だ。

 さて、純一郎は「自分は何をわかっていないのか」を見つけられるだろうか。

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喫茶おじさん

『喫茶おじさん』
著/原田ひ香


永江 朗(ながえ・あきら)
1958年、北海道生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。書籍の輸入販売会社を経て、フリーの編集者兼ライターに。著書に『菊地君の本屋』『インタビュー術!』『メディア異人列伝』『本を読むということ』『51歳からの読書術』『小さな出版社のつくり方』『文豪と感染症』『なぜ東急沿線に住みたがるのか』など。

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