連載第31回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『飢餓海峡』
(1965年/原作:水上勉/脚色:鈴木尚之/監督:内田吐夢/制作:東映東京撮影所)
「犬飼さん。あんた親切な人ね。私にはわかる」
1947年6月、函館から青森へ向かう青函連絡船が折からの台風を受けて沈没、多くの死者を出す。その中に、身元不明の二人の死体が。やがて、二人は事故前日に岩内で起きた強盗放火事件の犯人と判明。強盗は三人組と目されていたため、残り一人の行方を追って、函館署の弓坂警部補は津軽海峡を渡り下北半島へ向かった。その頃、「三人目の男」は「犬飼多吉」を名乗り、下北の大湊で娼婦の杉戸八重と出会う。八重の優しさに触れた犬飼は大金の一部を渡して姿を消した。そして、その金で借金を返した八重は人生をやり直すべく、東京へ移り住む。八重を追って、弓坂も東京へ――。
水上勉の小説「飢餓海峡」は何度か映像化されているが、映画化されたのは一度だけ。ここではその映画版と比較していく。
映画版も基本的な物語展開や人物設定は上記の通りで、原作と変わらない。ただ、上下巻の超長編であるため、脚色に際してはいくつかのエピソードの取捨選択がなされている。カットされた場面の多くは上巻においては弓坂(伴淳三郎)による捜査、八重(左幸子)の東京での暮らし。そして下巻の大半を占める味村警部補(高倉健)ら舞鶴署の警察官たちによる犬飼こと樽見京一郎(三國連太郎)の過去に関する捜査だ。
捜査シーンの多くがカットされたことで、警察側が何の手がかりもない状況から「犬飼の犯行」にたどり着き、その「犬飼」の正体を樽見だと断定するに至る、原作にあったミステリーとしての魅力はほぼ消えている。また、原作では八重を通して青森や東京の、樽見の過去を通して北海道の、それぞれの戦中戦後における救いがたい「貧困」が描かれていたが、映画はそれもない。
だが、だからといってタイトルの示すような「飢餓」が映画から感じられないかというと、全くそのようなことはない。そこにこそ、本作の妙味がある。
映画ではその「飢餓」を序盤の樽見に集約させているのだ。大湊へ向かう汽車で八重と出会った樽見が八重から握り飯をめぐんでもらう――という展開は原作と同じ。ただ、原作の樽見はその前に自身で干し芋を持参しているが、映画にはそれすらない。汽車に乗る前に恐山のイタコの暮らすあばら家に吊るしてあった干し芋を盗み食いしているだけなのだ。
そして、樽見の飢餓はもう一つある。それは、人の温もりだ。大湊の娼館で樽見は八重を抱くのだが、その様子は原作では「淡いいとなみ」と振り返っている。それに対して映画では、雷に怯えた樽見を八重が抱きとめ、そのまま激しく交わる。これは後で判明することだが、原作の樽見は北海道で貧しいながらも周囲の人々と優しい交流があった。が、映画にはそれは描かれていない。この時の八重との交わりだけが、人の温もりを感じた時間として映し出されているのだ。つまり、映画の樽見は腹と心に孤独な「飢餓」を抱えており、八重はその双方ともを癒してくれた存在として際立つことになった。
また、八重にとっての樽見の存在もまた、脚色がほどこされている。原作も映画も八重は樽見を「大恩人」と捉え、そのために弓坂に対して口を割らなかったというのは変わらない。ただ、原作は自分の金を守る気持ちもあったし、「なつかしさと有難さ」以外の感情は持ち合わせていないことが説明されている。原作の八重は東京で運送会社の小川という男と懇ろになるのに対し、八重は「犬飼」を一筋に思い続けており、愛情であり畏敬であり、原作以上に尋常でない特別な感情を抱いていることが伝わってくる。
そのため、「犬飼」と再会するに至る際の八重の心情も少しだけ異なるものに。樽見は故郷の舞鶴で事業を起こし、地元の名士となっていた。そのことが新聞で報道され、東京の遊郭で働いていた八重がその記事を見つける。ここで、原作では八重は新聞の写真が「犬飼」に似ていると思いながらも本人かどうか悩み、やがて「親族かもしれない」という可能性に行きつく。一方、映画はすぐに犬飼本人と確信しているのだ。
つまり、映画では「樽見にとっての八重」「八重にとっての樽見」が原作以上に「かけがえのない存在」として強化されているのである。だからこそ、舞鶴まで訪ねてきた八重を殺害するという樽見の行為が、より「取り返しのつかないもの」として突きつけられることになった。
そこは殺害方法にも表れている。原作は毒殺という周到性があるのに対し、映画では再び雷に怯える中で絞め殺すという衝動的なものになっている。取り返しのつかなさは、さらに強まることになった。
こうしたアレンジを経たことで、終盤のニュアンスも異なるものになっている。
弓坂も合流し、味村たちの尋問を受けて樽見は自供。そして北海道へ船で移送中に津軽海峡の海上から入水自殺する――という展開は同じだ。が、その間のプロセスは全く違う。
その際、映画には二つの小道具が付け加えられている。
一つは「灰」。映画は原作から多くの「飢餓」がカットされているが、実は一人だけ新たに「飢餓」の人物が加わっている。弓坂だ。映画では弓坂家の貧しさも描かれており、特に終盤、味村の来訪を受けて舞鶴に行くことになった際には、その旅費がままならないことが強調されている。ここで弓坂の息子から「あの事件で一生を棒に振った」「失業」というセリフが発せられており、その困窮をうかがい知ることができる。原作の弓坂は舞鶴だけでなく、味村と東京での捜査もしているのだが、旅費の心配は全くしていない。
これが、終盤に効いてくる。
揺るがぬ証拠で犯罪の詳細を自供した原作と異なり、映画での樽見は北海道の事件どころか八重殺害についても自供していない。質屋を殺して放火したのは残りの二人であり、舟で二人が死んだのも自滅によるもの――と述べた上で、貧しさの中で舞い込んできた大金のありがたみを力説する。
樽見は真実を話しているのか、否か――。捜査陣の大半は疑う中、弓坂だけは樽見を信じようとする。
「貧乏人の金に対する恐ろしいほどの執念と反抗。これは極貧の味を知らねぇものにはわからないのであります」
弓坂もまた「極貧の味」を知るからこそ、樽見の心情に寄り添えるのだ。
こうした共感は、原作には描かれていない。
「まじめな生活をしたものがいちばん勝利者だったということを、しらせてやらねばならない。わたしらにはその任務がある、かくれた罪人を摘発しなければならない任務があるわけです」と、突き放している。
そして映画の弓坂は、北海道からある物を持参していた。それが「灰」だ。樽見は津軽海峡を漕いでわたり、そして証拠隠滅のためその舟を燃やした。その際の灰を弓坂はこの時まで大事に保管していたのだ。
弓坂と樽見は留置場で一対一の対峙をする。これは原作には無かった場面だ。灰を樽見に差し出した弓坂は八重の想いを代弁し、なじり、北海道に帰ると告げる。一人になった時、樽見は灰を前に慟哭する。そして、こう叫ぶ。
「北海道へ連れてってつかあさい!」
こうして、樽見は事件以来初めて、海峡を渡ることになった。
自身の過去を封印するために固く閉ざしてきた樽見の心を揺さぶった小道具は、もう一つある。爪だ。
八重が大湊で切ってあげた、樽見の爪。それを八重は大金とともに大事に残していたのだ。これが八重の遺品から見つかったことで、決定的証拠となり樽見は陥落することになる。
そこでの自供内容は前に述べた通りで、それは原作に準拠しているのだが、映画ではもう一つのやり取りが加えられている。
「なぜ届け出しなかったか?」という味村の問いに、樽見はこう答える。
「届けたところで誰が私の言うこと信用してくれますか? 私には無実を証明する何の証拠もおまへんのや」
そして聞き入れない味村に樽見はこう言い放つ。「ほれご覧なさい。あんただって私の言うこと信用してないでしょう。十年前だって同じだ」
どれだけ真心をもって生きようとも、誰も信じてくれない。そうした人間不信が、映画の樽見の根底にはある。だが、実際には「誰も」ではなかった。北海道へ向かう汽車の中、かつて八重がかけてくれた言葉が樽見の脳裏に去来する。それが、冒頭で上げたセリフだ。
誰もまともに信じてくれなかった、素のまま樽見の優しさをただ一人だけ信じ、温かく受け入れてくれたのが八重だったのだ。だが、そんな八重を樽見は信じることができなかった――。樽見がしたことの「取り返しのつかなさ」は、ここで決定的に浮き彫りになる。原作では北海道の山村時代に見せた樽見の温かさを今も村人たちは感謝しており、八重は必ずしも特別な存在ではない。
過去を消し去ろうとした樽見。実際に、完璧に消したはずだった。だが、爪と灰という、犬飼のことを片時も忘れなかった二人が残し続けた「過去の結晶」が、樽見を逃がしてはくれなかった。
大きな時代としての「飢餓」を描ききった原作に対し、映画は小さな個人としての「飢餓」を描ききっていた。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。