先日、祖母が亡くなった。戦時中、女学生として動員され工場勤めをしていた彼女は寮暮らしだった。空襲があると防災頭巾を被り、寮を飛び出す。逃げ回る日々に嫌気がさしたのか、ある晩「もう死んでもいい、今晩ばかりは布団で朝まで寝る」と警報を無視して居座った。その夜、爆弾はいつもの避難壕に落ち、友らの命を奪った。寮にとどまった祖母は生き残った。
世界は偶然に満ちている。そこに在るのは物理法則という〝ルール〟のみ。〝意志〟はない。たまったものではない。人間は偶然の河に投げ出され、自分の生死さえも、無意味の濁流に委ねるのみだ。
いや、本当にそうだろうか。
僕らはただ、無意味を受け入れるしかないのか。
『深い河』の登場人物たちは無意味の濁流の底に杭を打ち、自分の生死の意味を自分で語ろうとする。〝意志〟無き世界で〝意志〟を与えられた人間ができること。それは〝意志〟によって自分の〝物語〟を見出すことではないか。たとえそれが河の果てで、藻屑になるとしても。
祖母より早く逝った祖父は戦後、新潟に帰郷した祖母を追いかけ、夜汽車に乗った。祖父の〝意志〟のおかげで、父や自分が生まれた。晩年、認知症だった祖母は追いかけてきた祖父のことを、少女のような顔で嬉しそうに何度も話した。どこの家族にでもある小さな物語だ。だが人間が人間であるためには、そんな物語が一番必要だ。
物語を生み出すのは世界ではない。人間の〝意志〟だ。自分もまた、〝深い河〟を前に「お前はどう生きるのだ」と問われている。
『深い河』
遠藤周作 著(講談社文庫)
孤独や喪失の穴を埋める術を求めて、5人の男女はガンジス河へ導かれる。生の意味を問い直す遠藤文学の集大成。
清志まれ(きよし・まれ)
1982年、神奈川県出身。2006年、「いきものがかり」のメンバーとしてCDデビュー。本名の水野良樹でソングライターとして楽曲提供多数。22年、新筆名の清志まれで初小説を上梓。
『幸せのままで、死んでくれ』
清志まれ 著(文藝春秋)
社会的成功を収めながらも、病で余命わずかとなったテレビ局のキャスター。彼の半生を遡った先に見える風景とは? 同タイトルの楽曲「幸せのままで、死んでくれ」も配信中。
〈「STORY BOX」2022年11月号掲載〉
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