根本宗子『今、出来る、精一杯。』刊行カウントダウンエッセイその4「言葉に触って生きる」
言葉に触って生きる
「根本さんは言葉に触ることができるんだね」
これはわたしが最近言われて一番嬉しかった言葉だ。
自分ではこんなこと考えたこともなかった。言われてみて、自分が扱う「言葉」について一度深く考えてみた。そう思ってもらえていることは嬉しかったけれど、果たしてわたしは本当に言葉に触ることができているだろうか。
「伝える」ということが自分にとってどれだけ大きなことなのかをこの二年くらいずっと考えている。
2020年にコロナ禍に入り、嫌でも自分の生き方や他者と共存していくことについて改めて考えざるを得なくなった。考え方の違いや話し合えなさもしっかりとその先を考えなくてはいけなくなった。「なんとかなるさ」精神だけではやっていけない部分が出てきた。きっと多かれ少なかれみんなあったんじゃないかと思う。
自分にとって人生は、自分が主人公のゲームみたいな感覚がある。
これは自分中心で世の中が回っているという意味はなくて、どうしたって自分視点でしか生きられない中で、何かのゴールに向かって1年365日を重ねているという感覚だからだ。毎日1歩ずつゆっくりと前なのか後ろなのかわからないところへ向かって歩いている図を想像してみてほしい。わたしの場合、その歩みの途中で何か「ん?」となることがあると頻繁に歩を止めてしまう。その止まった瞬間を物語にしているという感覚なのだ。
その感覚が自分の中で大きく音を立てた2020年に「もっとも大いなる愛へ」という作品を描いた。いつだって「わかりあえなさの先」を求めて劇作をしてきたつもりだったが、「やっぱり何もわかってなかったんじゃないか」の気持ちがあまりに強くなり、「じゃあ理解するってなんだ」とじっと考えすぎて、もうそのままを丸ごと出す他自分が保てなくて書いたような記憶がある。リモートでの稽古だったのもあり、俳優と会えない中で探り合いながら、離れた場所で作品を作っていく作業もまた、他者について通常とは違う考えを巡らせた。他人の思考にはどうしたって入れないので、誰が何を考えているかは本当の意味ではわからない。けれどそれを諦めてしまったら、人と生きていくことができない。「わかってほしい」も「わかりたい」もやっぱり決して捨ててはいけない感覚なのだ。
でも、今までは明らかにわたしの「わかってほしい」と「わかりたい」はどちらも100だった。それが2020年に自分の中で大きく変わり、「結局のところはわからない」という、
「他人同士であること」
をようやく本当の意味で理解した感覚があった。すごく感覚的な話なので文章にするのがとても難しいのだが、諦めの感覚の話ではない。むしろこの感覚がようやく自分の中で腑に落ちたことで、「わかってほしい」も「わかりたい」も少しやりやすくなった。多分「もっとも大いなる愛へ」を書かなければこの考えにはならなかったし、今もなお、家でずっと頭を抱えていたような気もする。やはりわたしは立ち止まると物語を書き、また前へ進む、を繰り返しているのだなと感じた。
わたしは言葉について考えすぎる人間なので、自分がある種イレギュラーであることは認識しているのだが、人は皆それぞれの言葉を持っている。自分の内面はどうしたって最終的には自分しか言葉にできない。生きているからこそ言葉で伝え、残すことができる。いなくなってしまうと、他人の言葉でしか語られない。もちろん語り継がれる素晴らしさもあるが、愛のある他人からの言葉ばかりではない。当人はもうそれを選ぶこともでないのだから。本当の他人からの適当な言葉で語られてしまうこともざらにある。
そう思うたび、「生きなくては」とわたしは思う。
言葉に触れているかどうかはわからないが、生きて言葉に手を伸ばすことを諦めたくないと思っている。
諦めよりはねばりの人生を歩みたい。
(つづく)
根本宗子(ねもと・しゅうこ)
1989年生、東京都出身。19歳で月刊「根本宗子」を旗揚げ。以降すべての作品の作・演出を務める。近年の演劇の作品として 2018年『愛犬ポリーの死、そして家族の話』、2019年『クラッシャー女中』、2020年『もっとも大いなる愛へ』などがある。本書が初の小説となる。
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