吉川トリコ「じぶんごととする」 13. まだその名前を知らない 後編

じぶんごととする 13 まだその名前を知らない 後編

作家・吉川トリコさんが自身の座標を定めてきた、あるいはこれから定めようとするために読んだ本を紹介するエッセイです。


 前回見切り発車で原稿を書きはじめ、ルンバに気を取られたり急に眠くなったりした状況を包み隠さずありのまま書いたが、気が散るのは原稿を書いているときだけではなく、読書をしているときも当然おおいにそうである。執筆中と同様、さまざまなことで気が散るのだが、本の内容に刺激されていろんなことを思い出したり、脳が活性化され、進行中の原稿や新しい小説のアイディアがふくらんできたりして、執筆中よりさらに気が散る。あとやっぱりスマホ。とにかくすぐスマホに手がのびる。集中して読書したいならスマホはいますぐ水に沈めたほうがいい。

あらゆることは今起こる

『あらゆることは今起こる』
柴崎友香
医学書院

 小説家でそんな人間は私ぐらいなんじゃないかと思っていたのだが、柴崎友香さんも『あらゆることは今起こる』で同じようなことを書かれていて正直ほっとした。その『あらゆることは今起こる』に、カレー沢薫先生の『なおりはしないが、ましになる』が紹介されていて、すぐさま既刊三巻までまとめて電子書籍で購入し、『あらゆることは今起こる』を放り出して『なおりはしないが、ましになる』を読みはじめた。夢中で一巻を読み、そのまま二巻に突入するかと思いきや、おもむろに「大人の発達障害」に関連する書籍をスマホで調べはじめ(カレー沢先生の本にも「スマホは落ち着きと集中力がないという特性と悪い意味でベストマッチ」とあったが、やっぱりスマホは半分に折って水に沈めたほうがいい)、そのうちのいくつかを図書館で予約したりしているうちに、市川拓司さんの『発達障害だから強くなれた ぼくが発達障害だからできたこと 完全版』が電子書籍で半額セールになっているのを見つけ、すぐさま購入して読みはじめた。

なおりはしないが、ましになる

『なおりはしないが、ましになる』1〜3
カレー沢 薫
小学館

 とまあ、こんなふうに連想ゲームのように読みかけの本を途中で放り出し、リレー形式で次から次へと渡り歩いていくので、うちには途中まで読んでそれきり何年も積んである本がМUGENにある。「買わなきゃ」といったん思ったら買わずにおれない衝動性も依然として旺盛なのであいかわらず本は買い続けているが、図書館の本なら期限までになんとか読もうとするので(それでも貸出延長したり読めないまま返却したりもする)、最近はほんとうに読みたい本ほど図書館で借りるという逆転現象が起こっている。

 多動というと落ち着きなく動きまわっているというイメージがあるが、「脳内多動」というものがあるのだと今回の横断的読書で知った。前回取りあげた遠藤一同さんとカレー沢先生は漫画家で、柴崎さんと市川さんは小説家、頭の中がつねに騒がしくあれこれと想像がふくらんで……という点ではみな似通っていて、クリエイター向きといえるのだろう。私もまさにこのタイプに該当するのだが、すべてのクリエイターが「脳内多動」なわけではないだろうし、「脳内多動」だからといって全員クリエイターになる/なれるわけでもないだろう。向いている仕事につけてラッキーだったと思うのと同時に、もうちょっと頭の中が整理されていたらいろいろ楽なのにとか、よくも悪くも視野狭窄的なのでもうちょっと全体を見渡せるようになるといいのになあとは思う。

 ふだん原稿を書くときは、なるべく意識して文章を文脈でつなげていくようにしているのだが(なにをあたりまえのことを言っているんだと言われてしまうかもしれないがでもだってそうなのです)、今回はなるべくとっちらかりをそのまま出そうと思っていて、とはいえあまりにありのままのとっちらかりをそのまま出すわけにはいかないから、見切り発車とはいえそれなりにととのえてはいる。エッセイでもこれだけ分量のあるものだと多少とっちらかってもあとから回収できたりするのだけれど、新聞のようにきっちり字数が決まっていると手足を縛られ口で棒をくわえてキーボードを打っているような感覚になる。

『あらゆることは今起こる』に「言葉を接続詞でつないでいくと、そこに序列や強弱が発生してしまう」とあって、ちょっと接続詞依存みたいなところのある私はぎゃっとなった。文脈を意識するあまり、極端な飛躍や逸脱をおそれてきゅうきゅうとしてしまい、せめてガワだけでも論理的っぽくみせようとして接続詞を多用しがちな傾向にある。だから、なので、しかし、であるからして、それで、そして、つまり。わー、めっちゃ使うわー。これはちょっと今後の課題かもしれない。

 のびのびと好きなように好きなだけ書いていると、話が脱線しようが蛇足だろうが際限なく書いてしまうこともあって、ついこのあいだ連載を終えたばかりの長編小説が、気づいたら八百枚を超えていて、さすがに長すぎるから二百枚削れと編集者にいわれ、「そんな、無慈悲な、後生だからかんべんを」と泣きついて百枚にまけてもらった。それでも百枚削るのはたいへんそうだ。

 打ち合わせでいくつか「このエピソードを削ったらどうか」と提案されたりもしたのだが、たしかにそれを削ったほうがまとまりのある「うまい」小説になるのだろうと意図は理解できても、もうぜんぜん心がついていかなくて、しばらくのあいだめそめそにかなしくなってしまった。そのエピソードに出てくる登場人物をいらない子だと言われたみたいに感じてしまったというか。さすがにナイーブすぎると自分でも思うし、全体を見る力が欠如している私に代わって全体を見渡し作品を良くしたい一心で提案してくれた編集者のほうだってたまったもんじゃないだろう(ならこんなことエッセイに書くなというかんじだが書いてしまったごめん)。

 これもなんらかの「こだわり」からくるものなのか、クリエイター気質というやつなのか、単に私のわがままなのか、それらすべてが絡み合って作用しているのかわからないけど、この調子では一生「うまい」作家にはなれそうもない。でも、そんな半身をちぎるような思いをしてまでべつにならなくてもいいかという気もする。


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)

1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。2021年「流産あるあるすごく言いたい」(エッセイ集『おんなのじかん』所収)で第1回PEPジャーナリズム大賞オピニオン部門受賞。22年『余命一年、男をかう』で第28回島清恋愛文学賞を受賞。2023年『あわのまにまに』で第5回ほんタメ文学賞あかりん部門大賞を受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『戦場のガールズライフ』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』シリーズ『夢で逢えたら』『流れる星をつかまえに』『コンビニエンス・ラブ』など多数。
Xアカウント @bonbontrico


 

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