【ランキング】心理リサーチの女性被験者に危険が迫る……! ブックレビューfromNY<第39回>

心理リサーチの被験者52番

11月16日(金)の夕方、地下鉄のアスタープレイス駅で降りたジェシカ・ファリスは、今日最後のクライアントのアパートを目指してマンハッタンのニューヨーク大学(NYU)付近を歩いていた。ジェシカはメイクアップアーティスト。本当は舞台のメイクアップがやりたくて、故郷フィラデルフィア郊外からマンハッタンに出て来て自活していたが、競争が激しく、現在は「ビューティバズ」社の契約社員として、会社からの指示で依頼者の家を訪問、メイクする仕事に従事している。今向かっている先はNYUの学生アパートで、客の2人は大学生だ。メイク中に、客のひとり、テイラーにかかってきた電話を漏れ聞いたジェシカは、彼女がシールズ博士の行う心理リサーチの被験者として登録していて、明日(土曜日)朝8時とその翌日(日曜日)の朝10時がリサーチの開始時間であること、そしてその2回のリサーチに参加するだけで500ドルの報酬が支払われる約束であることを知った。電話のあと、テイラーが「土曜日朝8時は早すぎて行けない」と言っているのを聞いて、500ドルももらえるのなら、代わりに自分が被験者になれないか? とふと思ったジェシカだった。

ジェシカは、財政的に厳しい生活をしていた。ワンルームの狭いアパートであってもマンハッタンの家賃はそれなりに高かったし、おまけに、実家にいる6歳年下の重い脳障害を負った妹ベッキーのセラピストの費用を両親に内緒で一部負担していた。「ビューティバズ」社の給料では生活していくだけでも大変だった。保険会社でセールスの仕事をしている父親と、教員を退職していた母親にとってはベッキーの医療費を出すだけでも大変で、セラピストの費用まで全額出すことは不可能だったのだ。

11月17日(土)朝8時、NYU教授シールズ博士の心理リサーチが行われるビルの入り口に待機していたアシスタントのベンに、テイラーが来られなくなったので自分が代わりに来たと言い、ジェシカは若い女性を対象に実施される「道徳性と倫理感に関するリサーチ」プロジェクトの匿名の被験者52番となった。214番教室に1人で入ったジェシカは、そこに置かれているPCと向き合った。リサーチは、スクリーンに映し出される質問に、答えの文章を入力する方式で行われた。

質問1:あなたは、罪の意識を感じずに嘘をつくことができますか?

そもそもテイラーが来られないので自分が代わりに来たと嘘をついて被験者となったジェシカは、この最初の質問で度肝を抜かれた。しかし、心を落ち着けて、「メイクアップアーティストとしてお客を喜ばすために、多少のウソの褒め言葉を言うこともある」と入力し、無難に切り抜けることができたと安堵した。ところが、質問はどんどん心の奥底に踏み込んでくるようになり、当たり障りのないおざなりの答えを出すと、スクリーン上には、「もっと深く掘り下げた答えを出すように」「表面を取り繕わないように」といった博士からの反応が映し出されるようになってきた。ジェシカは次第に、自分がこれまで意識的に忘れようとしていたことを無理やり思い出すようになっていった。追い詰められてほとんどパニック状態になったとき、突然教室のドアが開き、ベンが顔を出してセッションが終わったことを告げた。すでに次の被験者が教室の外で部屋が空くのを待っていた。

今まで、自分自身に対して嘘をついていたことを思い知らされ、本当の自分と対峙し、へとへとになったジェシカは、明日また同じような質問に耐えられるか自信がなくなっていた。しかし、一夜明けると気分が回復し、日曜日の朝10時、ジェシカは2回目の心理リサーチ・セッションに参加した。何とかすべての質問に答え、約束の500ドルを手にしてシールズ博士のリサーチは終わった……と思ったジェシカだった。

その週の水曜日から、ジェシカは、サンクスギビングの休暇を過ごすためにフィラデルフィア郊外の両親の家に滞在していた。ところが、驚いたことにサンクスギビングの当日、シールズ博士から「サンクスギビング明けの週末に、次のセッションを予定したいが都合はどうだろうか?」というメッセージがスマホに入ってきた。ちょうど父親から今年中に早期退職制度を利用して会社を辞めざるを得なくなるかもしれない、と打ち明けられ、この先両親と障害のある妹はどうやって暮らしを立てていくのだろうと心配をしていたジェシカは、「週末までにはマンハッタンに戻るので、いつでも大丈夫」と返事を出し、土曜日の約束ができた。

11月24日(土)、ジェシカは再びNYUの214番教室でPCのスクリーンと向き合い、前と同じような形式でセッションは始まった。そして、セッションの最後にシールズ博士はジェシカに、スクリーン上で、今後このリサーチ・プロジェクトに継続して参加する意思があるかを尋ねた。もし参加してくれれば、今までよりずっと多くの謝礼を払うが、もっといろいろなことを細かく掘り下げて質問することになると説明した。博士が何を意図しているのか測りかね、不安もあったが、両親の経済状態を心配するジェシカにとって、報酬が続くことは魅力的で「やります」と返事をした。

シールズ博士のなぞ

そして、今後のリサーチ・プロジェクトは博士と面談形式で行われ、リサーチの場所も大学の教室ではなく東62丁目にある博士の個人オフィスで行うことになった。その最初の面談日が11月28日(水)に設定された。今までのようなコンピュータを介した匿名の被験者としてではなく、博士と直接会って対話することになるので、ジェシカは水曜日までにシールズ博士について調べることにした。手始めにネットで名前を検索したところ、NYUのシールズという名の心理学専門の博士に該当する人物は、リディア・シールズという女性だけだった。ネットに掲載されている彼女の写真はどれも30代の目も覚めるように美しい女性だった。なんとなくシールズ博士は中年の男性だろうと思っていたジェシカは、この博士に対し、興味すら感じるようになってきた。博士はNYUの非常勤教授で、カウンセラーとして開業、心理学の専門書も出版していた。

こうして、ジェシカとシールズ博士の、被験者とリサーチャーの関係が始まった。

はじめは、シールズ博士が質問をし、ジェシカが答えるという手法だったが、次第にジェシカが博士を信頼して心を通わせることができるようになってくると、博士は自分の作ったシナリオに従い、ジェシカが博士の指定したマンハッタンの場所で、指示通りの役を演じることを要求するようになっていった。報酬の額も格段に上がり、そのことは非常にありがたかったが、ジェシカには、このリサーチに対する不安と疑惑が芽生え始めた。そして、はじめは憧れすら感じていた博士に対しても警戒心を持つようになった。

トーマスという名の男性と被験者5番

そして、シールズ博士の指示通りにマンハッタンのいろいろな場所(美術館、レストラン、バーなど)で役を演じるうちに、ジェシカは、ひとりの男性がいつも登場することに気づいた。トーマスという名前だった。トーマスはシールズ博士と何か個人的な関係があるのだろうか?

ジェシカはもうひとり、この奇妙な心理リサーチの折々に見え隠れする「被験者5番」に気づいていた。匿名の被験者5番とはいったいどのような女性だったのか? この女性に何が起こったのか? そしてどうやら、トーマスも被験者5番のことを知っているようであった。

最初は、シールズ博士に精神的にすっかりコントロールされていたが、次第に博士やリサーチ・プロジェクトそのものにも疑惑を持つようになったジェシカは、博士に隠された数々の謎を自分で解明しようと行動を開始した……。

そしてジェシカに迫りくる危険……。

2人の著者にとっての2作目、再びのベストセラー

著者のグリア・ヘンドリックスとサラ・ペッカナンは、パートナーを組んで最初のサスペンス小説“The Wife Between Us”[2]をちょうど1年前に出版、この作品はアメリカで根強い人気の「女性を主人公にしたサスペンス小説」の流れをくむものとして読者をひきつけ、軽々とニューヨークタイムズ・ベストセラーになった。そして1年後、2人による第2作目“An Anonymous Girl”は、先週、初登場で第1位にランクされた。

この小説は章ごとに、ジェシカが「一人称」で語ったり、シールズ博士が「一人称」で語ったりする。同じことがジェシカの視点、博士の視点から語られる。読者はその両方を読み、ストーリーの流れを理解していく。なぜ博士がたくさんの被験者の中からジェシカを選び、自分が真に目的とする「プロジェクト」のために彼女を使おうとしたのか? 生まれも育ちも生活環境も全く違うジェシカとシールズ博士という2人の女性の奇妙に共通する心の奥底の複雑な倫理的ジレンマや罪悪感に読者は次第に気づいていく。2人の間に生まれた親密すぎる「共感」は、やがてバランスを崩し、危険な方向に進んでいく。

そしてクリスマスの夜、迎えた結末は……?

本編ストーリーのやや悲劇的な終わり方にもかかわらず、エピローグでは意外にたくましく、したたかなジェシカの姿に肩透かしを食らい、安心する読者は、このコラムの筆者だけではないだろう。

[2]2018年2月、このコラムで”The Wife Between Us”を取り上げている。

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

初出:P+D MAGAZINE(2019/02/08)

◎編集者コラム◎ 『ロマンシエ』原田マハ
ハクマン 部屋と締切(デッドエンド)と私 第5回