【先取りベストセラーランキング】1969年の夏、その一家に何が起こったか? ブックレビューfromNY<第45回>

1969年の夏

1960年代はいろいろな意味で米国にとって変動の時代だった。50年代、アメリカ人は第二次世界大戦後の、そして朝鮮戦争による戦争特需で経済繁栄を謳歌した。しかし60年代に入ると、豊かな中産階級である白人アメリカ人の価値観を覆すような公民権運動、フェミニズム運動、反戦運動などが起こってきた。若者たちは既成の価値観を否定し、ヒッピーとなり平和や愛の歌を歌った。しかし同時に、60年代は血なまぐさい時代でもあった。ケネディ大統領の暗殺(1963年)、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の暗殺(1968年)、大統領候補だったロバート・ケネディの暗殺(1968年)、そして何よりもこの時代、ベトナムでは毎日大勢の若いアメリカ人兵士が戦死した。

“Summer of ’69”はそんな60年代の最後の年の夏を舞台にした、ある白人中産階級の一家の物語だ。

48歳のケイトには4人の子供がいる。上の3人は、軍人だったワイルダー・フォレイとの間の子供、末っ子のジェシー(ジェシカ)は今の夫、弁護士のデイビッド・レブン[2]との子供だ。

長女のブレアは24歳、MIT[3]の教授のアンガス・ウォーレンと結婚していて現在妊娠中、8月初めに出産予定だ。次女のカービーはサイモンズ大学[4]3年生、自由奔放な性格で学業にあまり身が入らず、反戦運動、人種差別反対運動のデモに参加し、すでに2回の逮捕歴がある。そしてケイトが最もかわいがっている19歳の一人息子のタイガー(リチャード)は今年4月に陸軍に入隊、今はベトナムに駐屯している。そして末っ子のジェシー(ジェシカ)は13歳の誕生日を迎えようとしている。夫のデイビッドは弁護士で、ケイトを愛し、ジェシーだけでなく、前夫との子供たちも同様にかわいがっている。

ケイトと子供たちは毎夏、ケイトの母のエグザルタ・ニコルスの所有するナンタケット島[5]にある別荘で過ごすのが習慣だった。夫のデイビッドは週末ごとにナンタケット島に来て家族と過ごした。しかし、今年は例年とは事情が違っている。ケイトは妊娠中の長女のブレアには、ボストンに留まるように言い渡した。次女のカービーは親友の別荘のあるマーサズ・ヴィニヤード島[6]に行き、アルバイトをしながら自活すると宣言した。タイガーはベトナムのどこかで戦っていた。ジェシーにとって、一緒に遊んでくれるカービーやタイガーがいないナンタケット島はあまり魅力がなかった。気難しい祖母と、母のケイトと過ごすことを考えると、ましてや、その母も8月前にはブレアの出産の手伝いでボストンに戻ってしまうことになっており、祖母と2人きりで古い別荘に取り残されることを考えると気が滅入った。友達がいるボストンに残りたいと両親に嘆願したが、簡単にその願いは却下された。そして例年通り6月の第3月曜日、ケイトは、母のエグザルタと末っ子のジェシーを車に乗せ、ナンタケット島に向かった。ナンタケット島の別荘では管理人のミスター・クリミンスが一行を温かく迎えた。

それぞれの秘密や問題

ボストンに残されたブレアは、夫の浮気を疑っていた。ブレアは子供の頃から頭が良く、ウェルズリー大学[7]を優秀な成績で卒業した後、有名女子校、ウィンザー・スクールの教師となった。いずれは大学院に進むつもりで、誰からも将来大学教授間違いなしと思われていた。しかし、天体物理学者のアンガスと結婚したブレアは、アンガスのたっての願いで仕事も学業も辞め、主婦業に専念していた。アンガスはMITの教授だったが、同時にNASAのアポロ11号[8]計画にも参加していたため多忙な日々を送っていた。ブレアは家にあまり帰ってこないアンガスの浮気を疑い、出産を控えて、喜びよりも惨めな気持ちだった。

マーサズ・ヴィニヤード島に着いたカービーは親友のラジャニの別荘の近くにある女性専用の宿泊施設に滞在し、「シャイアタウン・イン」でフロントの仕事をすることになった。カービーは心に深い傷を負っていた。デモで逮捕された時に知り合った警官スコットと恋に落ち、妊娠したがスコットは実は結婚していて、カービーに中絶するよう頼んだ。この時代、妊娠中絶は違法だった。カービーは妊娠のことを家族にも話せず切羽詰まったが、結果的には流産に終わった。そんなカービーにもマーサズ・ヴィニヤ―ド島で新しい出会いがあった。ラジャニの幼馴染みのダレンはハーバード大の学生で、母が医者、父が判事という黒人エリート一家の一人息子だった。新しい恋の始まりに期待を持ったカービーだったが、実は妊娠騒動の時に偽名で受診したクリニックの医師がダレンの母親で、彼女は息子とカービーが付き合うことに強く反対した。

一方、ナンタケット島に着いたジェシーはさっそく毎朝、祖母のエグザルタに連れられて「フィールド・アンド・オール・クラブ」に行き、テニスのレッスンを受けることになった。祖母と2人きりで出かけるのは気詰まりだったし、テニスは嫌いだった。おまけに初日から、コーチはフォームを教えると言って体を密着させてきた。レッスンが終わりロッカールームを出ると、祖母はまだパティオで友人のミセス・ウィンターとおしゃべりをしていた。受付には誰もいなかった。ジェシーはとっさに受付で売られている商品で一番手近にあるリストバンドを手にした。もし誰かに見とがめられたら、祖母に支払いをしてもらえばよいと思った。しかし、誰も気づいた様子はなかったので、ポケットに入れた。ジェシーは気持ちが動揺すると万引きをする傾向があったが、今まで誰にも気づかれることはなかった。

エグザルタの別荘の離れには、驚いたことに管理人のミスター・クリミンスだけでなく、孫のピック(ピックフォード)が一緒に住んでいた。ミスター・クリミンスにはロレーン(ラベンダー)という名前の娘がいたが、15年前に妊娠が発覚してナンタケットを去り、音信不通だった。ところが、最近母親と別れ別れになった息子のピックが突然、祖父のミスター・クリミンスを訪ねてきたので、祖父と孫は別荘の離れで一緒に暮らすことになったという。ピックの父親は誰なのだろうか?

ケイトは事故死した前夫について語ることはあまりなかった。朝鮮戦争から戻ったワイルダーがピストルの暴発事故で死んだ時、事故か自殺か保険会社から調査が入った。その時、ケイト側の弁護士を務めたのが今の夫のデイビッドだ。ワイルダーの「事故死」が確定した後、デイビッドはケイトにプロポーズして2人は結婚した。このワイルダーの死に関し、どうやらケイトはデイビッドにも話していない秘密があるようだ。一方、息子のタイガーからの手紙が途絶えていることが、ケイトの不安を掻き立てていた。不安のあまり飲酒の量が増え、週末訪れるデイビッドもケイトのアルコール依存には不快感を示し始めていた。

そして7月になり

ブレアの夫に対する疑いはますます深まり、そのことでアンガスを問い詰めると喧嘩になり、ついにブレアはボストンの家を出て、ナンタケット島の別荘に来てしまった。ブレアがボストンに戻る気配はなかったし、アンガスからの連絡もなかった。ブレアが家を出た直後、アポロ11号計画は最終段階に入り、アンガスはボストンの自宅を出て、NASAに泊まり込むようになっていた。そして7月20日、予定日より2週間も早くブレアはナンタケット島の病院で双子を出産した。出産後、病室でテレビを見ていると、ちょうどアポロ11号が月面に着陸し、ニール・アームストロングが人類で初めて月面に降り立ったことを報道していた。

一方、順調にマーサズ・ヴィニヤード島のホテル「シャイアタウン・イン」のフロントの仕事を始めたカービーは、ダレンの母の目を盗んで、彼と時々会っていた。7月のある日、エドワード・ケネディがこのホテルにチェックインした。兄の故ロバート・ケネディの選挙スタッフだったエリート女性達、通称Boiler Room Girlsを招いてチャパキディック島でプライベート・パーティを主宰するということを、カービーはこの島に来てから親しくなったパティから聞いた。パティの姉のサラはBoiler Room Girlsの1人で、このパーティに招かれていた。当日カービーはパーティに出かける前のサラと、サラの友人のマリー・ジョー・コペクに会っていた。そしてその深夜、エドワード・ケネディの運転する車が橋から転落し、エドワード・ケネディは岸に泳ぎ着いたものの、同乗していたマリー・ジョーは翌朝車内から溺死体で発見されて大スキャンダルとなった。この事件を知ったカービーは、美しく輝いていたマリー・ジョーに対する哀悼の気持ちを強く持ち、同時にあこがれていたエドワード・ケネディに対する深い失望を禁じ得なかった。エドワード・ケネディが事故の後、ずぶ濡れでホテルに戻ってきた時、たまたま席を外していたことを理由にカービーはホテルを解雇され、家族のいるナンタケット島へ行くことを決意した。

ある週末、ジェシーは父と「フィールド・アンド・オール・クラブ」でテニスをした。何か屈託ありげなジェシーにデイビッドは「何でも話してごらん」といった。ジェシーには話したいことがいっぱいあった。万引き癖のこと、ミスター・クリミンスの孫のピックに対する淡い初恋の気持ちと失恋、母のアルコール依存、そしてミスター・クリミンスと祖母の何やら怪しげな関係、など言いたかったが、言えなかった。子供はすべてを話す。だが大人はそんなに単純ではない。後になって「1969年は私が本当の自分になった時だった」と振り返るだろう、とジェシーは思った。そしていろいろな問題を話す代わりに、「持ってきた新しいレコード・アルバムをまだ聞いていない」と答えた。デイビッドは「ということは、思ったよりは良い夏を過ごしているね」と安心したように答えたのだった。

8月以降

●ブレアとアンガスの仲はどうなったか? アンガスは本当に浮気をしていたのか? ブレアは専業主婦を続けるのだろうか?
●目的の定まらなかったカービーは、真に自分のやりたいことを見つけることができるのだろうか?
●ジェシーの万引き癖は直ったのだろうか?
●タイガーの消息は?
●ケイトのアルコール依存は改善しただろうか?
●ダレンとカービーの関係はどうなったか?
●ジェシーが目撃した祖母とミスター・クリミンスの関係とは?

1960年代という時代

激動の1960年代の最後の夏、ケイトとデイビッドと4人の子供たち、祖母のエグザルタはそれぞれにその時代を生きた。ベトナム戦争、アポロ11号の成功やチャパキディック事件、反戦や公民権運動など大きな出来事や事件に関わりを持っただけではない。ユダヤ人であるという理由だけでデイビッドのことを気に入らなかったエグザルタは、「フィールド・アンド・オール・クラブ」でジェシーのテニス・レッスンの申し込む時、ジェシカ・レブンではなくジェシカ・ニコルス(エグザルタの名字)で登録し、それを知ったジェシーがショックを受ける場面がある。多くの名門「クラブ」ではこの時代、黒人、ユダヤ人はまだメンバーになる資格がなかった。また、妊娠中絶が女性の権利であるという考え方が定着している現代の読者のなかには、わずか50年前には米国で中絶が違法だったことにも驚く人もいるだろう。そして、一流大学を優秀な成績で卒業し、一流学校の教師だったブレアが、大学教授だった夫の願いで、教師の職も、大学院に進む夢もあきらめて専業主婦になったというのも、今の感覚からすれば信じられない。新婚早々、大学の教授たちの集まるホーム・パーティに出席することになったブレアは、学者の集まりだということで、派手すぎないように黒のタートルネックに黒のベルボトム、アクセサリーは銀のフープイヤリングのみ、化粧もあっさりと仕上げて出席した。ところが、驚いたことに夫人たちはみなカラフルなドレスやスカートで着飾り、メイクもばっちりとキメていた。年取った教授に若い妻というカップルもいて、夕食の後は、教授陣は教授同士で話をし、妻たちは妻たちで集まってインテリジェンスのないたあいもない話をしたのだった。このパーティの次の日、ブレアは夫に内緒でハーバード大学の大学院に入学願書を提出した。そして3週間後、合格の手紙を受け取ったが、妊娠が分かったため、大学院へ行くことをあきらめたのだった。

こうしてそれぞれの1969年が過ぎ、時代は70年代へと移っていった。

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エリン・ヒルダーブランドはペンシルバニア州カレッジビルで育った[9]。ジョンズ・ホプキンス大学卒業。1993年以来ナンタケット島に住み、3人の子供がいる。主にロマンス小説作家として知られ、すべての小説はナンタケットを舞台にしている。2014年5月24日の記事でニューヨークポスト紙は、ヒルダーブランドを「夏のビーチで読む本の女王」[10]と呼んだ。25作目となる本書“Summer of ’69”は彼女にとって初めての歴史小説となる。

[2]Levinという名前はいろいろな発音があるが、「LevinはHeavenと同じ韻を踏む」とジェシーは自分の名字の発音について説明しているので、カタカナ表記は「レブン」ということになるだろう。一般的なレヴァイン、レヴィンという発音ではない。
[3]マサチューセッツ工科大学
[4]ボストンにある私立女子大学
[5]米国のマサチューセッツ州ケープ・コッドの南30マイルに位置する島。タッカーナックとマスケゲットという小さな島々と共に、ナンタケットの町を構成し、ナンタケット郡 となっている。
[6]アメリカ合衆国マサチューセッツ州デュークス郡に属する、面積231.75 km²の島。
[7]1870年創立。全米屈指の女子大かつリベラルアーツ・カレッジで、伝統ある名門女子大7校から成る「セブンシスターズ」の一校。
[8]1969年7月20日、史上初めて人類を月に着陸させることに成功したアポロ宇宙船。
[9]ヒルダーブランドの生まれた年と場所に関しては、本書のジャケットのそで部分には「1969年ボストン生まれ」と表示されているが、一般的にはWikipediaも含め「1950年ペンシルバニア州カレッジビル生まれ」となっている。
[10]“The Queen of Summer Beach Read”

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

初出:P+D MAGAZINE(2019/08/16)

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