ニホンゴ「再定義」 第14回「エモい」
個人的には夫の発言の中にある「暗号めいたニュアンス」の奥にいろいろと核心があるのではないかと踏んでおり、その意味で、先日行われた第170回芥川賞の「選評」をめぐる書評家・杉江松恋氏と私の対談で出た、川野芽生氏の候補作「Blue」とその選考委員による評価をめぐる以下のやり取り(「Web本の雑誌」に掲載)は印象深い。
マライ:この作品は、登場人物に共感やエモ感を覚えなければアウトだと思うのです。
杉江:エモ感はどうも嫌われるっぽいんですよ。だって前回、あんなに胸を打つ小説だった乗代雄介『それは誠』が評価してもらえなかったぐらいですから。
ここでいう「エモ感」、特に杉江松恋氏が発している部分は明らかに、ストレートに「あはれ」で代替可能ではない。「あはれ」を包含する可能性は実際高いが、その上で完全互換を拒絶する強力な何かがある。杉江松恋氏は言霊分析のプロ中のプロであり、彼の表現にはコンマ数ミリ未満の意味定義の違いが意図的に込められていたりするから油断ならない。まさに言霊界の黒ひげ危機一発のような存在といえるだろう!(誉め言葉)
では実際、何なのか?
21世紀前半は、趣味を含めた文化領域の限りない細分化・タコツボ化の時代である。ありていにいえば、大雑把な、素朴な「感動表現」が何気にどんどん許されなくなってきている実感がある。誰もが自分の所属する「業界」や「界隈」に応じたニュアンスで表現する必要があるのだ。いや、実は業界どころか個人レベルでも「幅数ミリ、しかし深さ4000メートルほど」の深い分断が、親しいはずの周囲との間に存在してしまっているかもしれない。つまり、既存の旧来的な言葉の定義に沿って明確に(あるいはうかつに)自己表現すると、他者との間で感動や感銘の共有ではなく、むしろ分断が明確化してしまうリスクが増加しているのだ。俗に「~警察」と呼ばれる文化的な自警団じみた存在が、ネット上でその傾向を悪化させているのは言うまでもないだろう。
では「単純で素朴な感動」は滅んでも仕方ないのか? また、実際には多面的で奥深い感興が湧いているのだけど、それを凝った形で自ら表現できないケースもあるわけで、そんな彼らには感興を表現する資格がないのか? いやそんなことはない!
そういった声なき心情の集合的な力が、「エモい」というコトバの拡散と隆盛をもたらしたのではないだろうか。ここには、そのコトバを最初に開発/運用した人の想定以上の祈りと呪いが蠢いているように感じられる。
つまり「エモい」というコトバには「厳密には違うんですけど!」「単純じゃん!」というお節介な批判を跳ね返すと同時に、他者の感性との分断ポイントを敢えて不明確にすることでポジティブなコミュニケーションを成立させやすい、という効用があり、それこそが言霊として社会的に定着した最大の理由であるように思うのだ。
ここで重要なのは、通常の言語コミュニケーションでは「意味定義をより明確化させる」ことで意思疎通が強固に成立するのに対し、エモいという言葉を介在させるコミュニケーションでは「相手から否定されない」ことで意思疎通が成立する(点に意味がある)、ということだ。消極的な意味での暗号ともいえるし、厳密な相違点を意図的に消去することによる心情的連帯を優位化する宣言ともいえる。いずれにせよ、言語的に厳密な意味定義よりも重要な「意思疎通」があるのだ、というコミュニケーション性の提示は興味深い。