ニホンゴ「再定義」 第19回「大予言」
ときに一方、「予言しちゃう側」もまた大変だろうなと思ったりする。予言のネタというのはだいたいが幻視系のヴィジョンであり、その真贋についてはいろいろ言われつつ到底この場で決着がつくものではない。が、「何か普通でない形でモノが見えちゃう体験」がこの世に存在することは事実だろう。というか、そういう妥協点を設けておかないと話が進まないのでご容赦いただきたい。
我々のような野次馬はそういった幻視について、なぜか勝手に「異界やら未来の状況が、メッセージ性を軸に端的にまとまった内容」なのだろうという先入観を抱いている。ありていにいえば映画の予告編みたいな感じ。でもそれってちょっと都合が良すぎないか。本当はもっと投げやりでわかりにくい内容なんじゃないかと思う。世界と時空を、プログラムにもとづくシステムと考えた場合、ちょっとしたバグや不具合で、誰かの眼前に、別の座標から見えるべき情景が20秒ほど展開することとかって、そこそこありそうだ。では具体的にどういう事象がありうるかというと、たとえば、敬虔な中世ドイツの修道女の眼前に、タモリ倶楽部の空耳アワーの映像がノーヒントで1分ほど流れてしまうとかである。元プリンスの「農・協・牛・乳!」なんかだと特にいいなぁ。そんでもってドイツの修道女は真面目なので、知力を尽くして神学的にポジティブな解釈をしようと頑張ると思うんですよ。それこそハッタリ含めてムリヤリに。で、そういう艱難辛苦の末に、聖女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンの伝説が生まれたりするのかもしれない。いいなぁ。実にいい。
そんなわけで、予言する側にもされる側にも、事態のほどよい収拾というのはそもそもあり得ないのである。それが大予言主義の、素晴らしくもまたしんどい特徴といえるだろう。
(第20回は9月30日公開予定です)
マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。