ニホンゴ「再定義」 第2回「忖度」

ニホンゴ「再定義」第2回


 私のような市井の凡人に、自力でその真贋をガッツリ証明せよといっても正直なところ難しい。いろいろなモノゴトの蓋然性からみた推測しかないわけだが、それを踏まえて考えて、ホロコーストはやはり世間的イメージどおりな形で実在したんだろうとは思う。じゃあ、もしも実際に明確な指令文書が無かったとしたら、何故あれほどの精緻で大胆な悪のプロジェクトを整然と実行できてしまったのか? と問われれば、私は「おそらく主因のひとつに、ドイツ的忖度メカニズムのチカラがあるでしょう」と応える。

 ナチのユダヤ人絶滅を実効政策として決定づけたのは、史家の見解によると、一九四二年にベルリンのはずれで開催された「ヴァンゼー会議」である。それまでナチ体制内にて、ユダヤ人を「迫害の対象」と見做す点では一致していても、各現場セクションの都合で「殺す」「労働力として確保する」「追放する」「前大戦で戦功があった者は見逃す」など現実的な対応がバラバラであったのを、主催者の論理展開により「基本、絶滅させます」に統一し、さらにそれを一気に優先的国策にしてしまった点にこのイベントの歴史的重要性がある。

 ナチス親衛隊の最高幹部だったラインハルト・ハイドリヒ大将が主催したこの「悪の会議」は、しばしば映像作品化されたことでも有名だ。特に名優ケネス・ブラナーが「暗黒ビジネスマン」的にハイドリヒを演じきった映画『謀議』は、役者がキャラ的にも外見的にもハイドリヒに1mmも似ていないにもかかわらず、ハイドリヒの知力とナチス官僚組織の闇黒ぶりの核心を見事に換骨奪胎して再構築した傑作といえよう。「逆・十二人の怒れる男」とも称される所以である。

 その「核心」とは何か?

 ひらたくいえば、公益という名目と免罪符の融合である。そしてハイドリヒには強大な「第一の忖度」として、「ヒトラー総統はユダヤ人の絶滅を、喩え話ではなく物理的現実として切望しているはずだ。ゆえにやらねば!」という思念があった。ここではヒトラーが実際どう思っていたかにかかわりなく、ハイドリヒの忖度ベクトルが異常に強固だった点が重要だ。その上で彼はヴァンゼー会議に限らず、親衛隊での警察/軍政指揮官としてのキャリア全体を通じ、実用的な「免罪符システム」を援用すれば、一種の暗号として上下左右に拡散する忖度コミュニケーション術を通じ、あたかも善であり公益であるかのように悪をおおっぴらに具現化できる! ということを、執念深くエネルギッシュに証明していった。

 ハイドリヒは「計画的大量殺害」を、「移送」「医学的処置」「適切な措置」「最終的解決」といった免罪符の小片の機能的集合体として再構築し、良心の呵責を極小化することで、各階層の執行者にとって悪を使いやすいものとした。そのしょっぱなの大一番がまさにヴァンゼー会議であり、ここで行政や法律のトッププロに自らの観念的戦術がみごとに通用し、場を完全に誘導できてしまった事実はハイドリヒにとってというか、「悪」にとって決定的な一打になったといえるだろう。上流中枢をガッツリ押さえたなら、官僚システムの末端までを染め上げるのは比較的容易だからだ。それがドイツの権威主義文化というものである。

 かくしてホロコーストは、ある意味「無言のうち」に、巧みに強固に実行されていった。

 ラインハルト・ハイドリヒという人物について私はこれまでもいろいろな場で再三言及しており、その悪の深みと凄みをちゃんと深掘りした創作/ドキュメンタリー作品が今なお皆無であることに大きな苛立ちを覚えている(わずかな例外が先記の映画『謀議』と、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』である)のだが、こと「言語性」という観点から照射した場合、言語的・非言語的コミュニケーションの狭間で人心をコントロールする能力に、彼の異才というかヤバみが集約されているように感じる。

採れたて本!【エンタメ#09】
週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.88 八重洲ブックセンター京急百貨店上大岡店 平井真実さん