ニホンゴ「再定義」 第2回「忖度」
もともとドイツの知性学究は、言語的定義を軸にした論理展開で森羅万象を表現・説明することが可能、という強めの信念に立脚している。良くも悪くも「言語的コミュニケーションって万能!」という認識がそこにある。だが「移送」「医学的処置」「最終的解決」といった表現はどうだろう? 確かにそれらは言語的な材料ではあるが、正しく言語的コミュニケーションに属しているといえるだろうか? 否。用法の実態からしてそれらは実は、言語性の皮を被った非言語的コミュニケーションの下僕というべきである。
だが、そのカラクリを見抜ける者は少ない。
だからハイドリヒに容易に仕切られてしまうのだ。
ハイドリヒ的なコミュニケーションにて「忖度」は、まず「悪の証拠隠し」として有効に機能するわけだが、それだけではない。絶滅政策を糊塗する言い換え語たち、ああいうのは通例、その場しのぎの「言い逃れ」的なものでしかないわけだが、それを、ありがちな後ろめたさが霞むほど高度にシステム化した場合、自分がむしろ何かポジティブで生産的なことを実際にやっているかのような錯覚に至ったりするのだ。実にそのへんの逆説的な徹底ぶりこそ、ハイドリヒ「イズム」の恐ろしさの天守閣本丸といえるだろう。
また、逆コースも存在する。
彼が親衛隊国家保安本部(スパイと政治警察の元締めみたいなセクション)のボスだったときのこと。配下に「特別行動隊」というユダヤ人殺戮専門部隊があり、そこへの配属は親衛隊内部でも忌み嫌われていたのだが、親衛隊のキャリアクラスのエリート高級将校(行政志向で博士号を持っていたりする)をわざわざその現場指揮官に任命していた。これは、肩書スペックで自らを汚れ仕事と無縁な存在と定義していたドイツ的エリートたちにとって大変な衝撃だったのだが、いまさら逃げを打つわけにもいかず、結果的に彼らの旧来的な内面価値観の破壊と、共犯者意識にもとづく新しい暗黒規範の受け入れが効果的に進行したらしい。これは言語的定義のウラをかいて無効化する、極めて高度な心理術といえる。ちなみに手塚治虫の『アドルフに告ぐ』で、主人公のひとりアドルフ・カウフマンが、親衛隊キャリアアップの一環で経験させられるのがまさにこれだった。やはり手塚治虫は凄い。
ハイドリヒはありとあらゆる同僚部下上司に嫌われながら権力の階段をわりと容易に上り詰めた人物で、なぜそんなことが可能だったのか。通説では「有能」「人の弱みを握るのが上手い」という説明でおおかた済まされているのだけど、このような資質面の考察を行うと、いろいろな現象面に対してもっとマシな説明づけが可能になるのではなかろうか。嬉しい話ではないけれど。
ヴァンゼー会議の記録とか見ると、ハイドリヒ以外は優秀な凡人の集まりにすぎず、自己主張しているつもりでありながら、実は受け身しかとっていないのが明白に見てとれるのが興味深い。「忖度する人」と「忖度システムをプロデュースする人」の違いが表れているというべきだろうか。
忖度プロデュース能力は、可視化容易な言語コミュニケーションのウラをかくのに向いているので「場の支配」への近道でもある。が、ハイドリヒの記録とかみるに、一種の全能感というか万能感みたいなものに地味に浸食され、それゆえ危機管理がユルくなって結果的に死期を早める副作用もあるらしい。
人の能力と運命と善悪についてもいろいろと深く思いを馳せられる、忖度というのはなかなかの凝縮語なのだ。
(第3回は4月30日公開予定です)
マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。