ニホンゴ「再定義」 第5回「帝国」

ニホンゴ「再定義」第5回


 ナチス第三帝国についても似たことが言える。

 これは私自身がナチズムについて考えすぎたからの所感なのかもしれないが、たとえばホロコーストにて、

 ①獣性に満ちた看守による粗暴さに満ちた暴力

 ②整然さと効率性を重視する大量ガス殺

 この①②は両方とも存在したけれど、今ここで述べられている文脈でどちらが「帝国っぽい」か? といえば、問答無用に②である。実話ナックルズ等アングラ媒体でよく目にする反社アウトロー組織でも①はできるけど、②は真似事さえ不可能だ。この概念的な境界こそ帝国の壁なのかもしれない。

 工業的ともいえる人種絶滅策は、ユダヤ人を(ドイツ国防軍や政府機関からの干渉を受けない)固有の労働資産として活用しようと考えていたナチス親衛隊の経済セクションからの反発をも押し切って実行されたもので、わずかな労働力でも喉から手が出るほど欲しい戦時経済のリアリティを顧みれば、第三帝国の社会的ライフサイクルからみて百害あって一利なしの不合理さであった。

 しかしだからこそ、この暗黒アクションは「単純な人智を超えた、底の知れないルールに沿った暴力の整然とした執行」として、帝国以上の「帝国っぽさ」要件を完全に満たす史実となったのだ。ナチス第三帝国の「悪」が、言語化可能な領域を超えていろんな意味で人心に食い込んでしまう理由のひとつが、このへんにあるような気がしなくもない。

 ちなみに人文的領域にて、ポスト冷戦的基準で「帝国」について定義を行ったもっとも重要なベンチマークとして言及されることの多い書物は、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハートの『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』だろう。毀誉褒貶あるが、いちおう名著と呼んで良いのではないだろうか。

 本稿に則した形でネグリ的な「帝国」定義を表現するなら、それは「社会的格差を拡大・固定化させる機能を持つ、情報と商品のネットワーク的な巨大代謝システム」となる。寡頭支配層にコネを持たない人々は基本、ネットワークに従属させられる形でからめとられており、ネットワークを通じて生き永らえることが可能だがそれ以上に収奪されてしまう。よって格差は拡大するしかないけれど、モノや情報の再生産システムが妙によく出来ているゆえ、収奪のダイナミズムが結果的に「帝国」のネットワーク機能を強化する構造となっている。そのため旧来の労働運動、階級闘争的な問題認識やアプローチでは歯が立たない。しかし、情報の横溢とインフラとしてのネットワーキングは、支配層のもくろみとは別にどこかで「被支配層の知的触発」を生み、その集合知的な成長が、国境を超えた汎人間的な新たなる民主主義に結実し、「帝国」を脅かす存在になるであろう。いや、なってくれるといいなぁ。ちなみにこのニュータイプ民主主義ベクトルは「マルチチュード」と呼ばれ、マキャベリ由来の言葉である。

 …という感じだ。

 個人的には、「マルチチュード」の説明よりも「帝国」の説明のほうが魅力的でよく出来ている(※個人の感想です)点に、なんともいえない危機感と焦燥感を覚えてしまう。インターネットの普及はいかにも「国境を超えたポジティブ集合知の醸成」をもたらす契機のように見えるが、現実には、既存の枠組み(保守 vs リベラル、フェミニスト vs アンチフェミニスト等)の閥族それぞれの内側での細分化と抗争を激化させる触媒として最高効率で機能しているように感じられる。要するに、与えられたデバイスで広がる知的可能性が10個あったとすると、下から2番目あたりを敢えてチョイスしてしまうのが人間の宿業だ、ということなのだろう。

 もうひとつ、ネグリ先生の本を読んでちょっと気になるのは、もともとマルクス研究者だったためなのか、人間観・社会観が基本的に経済学的な「システム的にあの駒はこう動くでしょ」的なセンスで完結してしまっている点だ。言ってること自体は別に間違いではない(あるいは、間違いと証明することが困難)のだけど、たとえば彼の世界には「カルト的組織の浸透・介入」みたいなものが重要因子として出てこないのだ。

若松英輔『光であることば』
増山 実『百年の藍』