ニホンゴ「再定義」 第6回「四季」

ニホンゴ「再定義」第6回


 ひとつ考えられるのが、この(仮)コピーだと、「日本ならでは! とかゆーなら、外国の四季と比べてどこがどう違うのか、言ってみろや!」的なツッコミを誘発する可能性があるということだ。そう、特に最近のSNS文化の暗黒面においては。で、市井の日本人の多くは、実際そんなの即答できないのである。それは別に恥ずべきことでもないのだが、世情および世情に影響された自律性がそれを許さないのだ。でもそんなの、特に観光業者だったら「たとえばアメリカに比べて……」とかナンボでも具体例を挙げられるやん、と思うでしょ。だがそう簡単には済まない。もし言ったら言ったで、

「アメリカといっても本土の東西4500㌔、南北2660㌔の広がりを気候的にひとくくりにはできない。海洋性気候と大陸性気候、さらに冷帯湿潤から熱帯乾燥気候まで変化は大きい。またアメリカというならば、カナダや南米をも加えた場合(以下略)」

「気候風土で他国にマウントを取るのは差別意識の表れじゃないですか?」

 …といった形で「テンプレ正義」的なクソリプ群が勢い込んで襲いかかってくる可能性が、だいたい平均25%ほどある。まさにテンプレ騎士団の脅威。この25%というのは体感から導き出したテキトーな数値ではあるが、とにかく、言葉尻をとらえられて面倒ごとに巻き込まれる危険性が極大化しているのが、21世紀の第1四半期のコミュニケーション文化のひとつの特徴なのは確かだ。

 ということで、つまり。

 意識的かどうかはわからないが、この「日本には、四季があります」という、あたかも太陽系第三惑星の上に「日本」という国家しか存在しないかのような語法は、いかにもツッコミどころ満載でありながら、他国の気候事情に関する知識の欠如を上手くはぐらかすのに、実は効果的といえる。まっとうに論理的なコトバを使用して知識ベースのマウント窮地に追い込まれるよりは、無知なふりをしながら言いたいことを言い放った方が実は戦略的に上なんですよという、情報あふれ環境を逆手に取った一種の野性的な知恵の表れなのかもしれない。

 そう考えると面白い。

 これを前提に、紙魚エビさんの体験を深掘り検証してみよう。

 まず、自分が学生で、書いたレポートについて「四季は多くの国にありますね」と紙魚エビ先生からツッコミを食らったとする。私はどうするか?

善なる自分≫「確かに論理的にはおかしいです。しかしこれは、敢えて論理性を捨ててまで【オンリーワン的な良さ】を主張するための一種のインパクト強調表現であり、その心意気だけは汲み取っていただきたいのです」と返す。

悪なる自分≫「じゃあ先生、外国の四季って何がどうなっているのか、皆にわかるように説明してください。それが無いと私のコトバを否定する蓋然性が足りませんので」と返す。

 実際に紙魚エビさんが担当した学生さんはこのいずれにも踏み込まず、単にまごつくだけだった模様だ。ということは悪意敵意の無さの証明ではあるが、他方、どこかのキャッチコピーの受け売りにすぎないかもしれないものの、とにかく日本のいけてる感を発信したかったのね、という点がプチ印象的だ。≪善なる自分≫に記したのはその自覚的表現といえる。

 ちなみにここで≪悪なる自分≫が発するリアルクソリプにはどう対処すべきかというと、まず、地球の自転・公転をベースにした「地上のだいたいのポイントには国を問わず四季という現象が発生せざるを得ないんです」という、地学・天文学的な観点からの物理的な絶対説明をぶつけることによって敵側のそもそもの評価基準を潰した上で、「あなたの表現は、森羅万象を負の方向に均質化させて、すべてのモノの価値を相対化させることを潜在的に企図しています。つまり反知性的な地雷的言霊です。私の仕事は地雷処理ではないので、次に行きましょう」とクローズしてしまうのが良いだろう。ただし、下手を打つとあとでモンスター親が「あなたッ!これはッ!ハラスメントですッ!何のハラスメントかはよくわからないけどッ!」と怒鳴り込んでくるかもしれないので、現場での言葉選びは慎重に。でも、脳内にはチャック・ノリス主演『デルタフォース』の主題曲が鳴り響くのだ。うははははは。

萩原ゆか「よう、サボロー」第8回
青山七恵さん『前の家族』