ニホンゴ「再定義」 第8回「サボる」

ニホンゴ「再定義」第8回


 このように概観してみると、20世紀末の「サボる」アクションの背景には、「何人かサボってても、まあ大局に影響ないし!」という社会の余裕みたいなものがあったなぁ、とつくづく感じずにいられない。コストカットと人材配置の最適化がいろんな場所で常識・常態化してしまった今はまるで違う。思えば遠くに来たもんだ。

 そういえばヤンキー系漫画でも、90年代末を象徴する『GTO』なんかは、「サボる」ことが物語とドラマとロマンの起点となることが多かった。サボりを絶対に許さない(そして国産高級車に乗りたがる)教頭キャラも必須だし。対して2020年前後のソレ系を代表する『東京リベンジャーズ』では、「サボる」という行為が目立つことはあまりなかった気がする。まあそもそもそんなことを気にできる状況でないとか「自明なので敢えて説明不要にしました」とかいった作者側の配慮なのかもしれないけど、いずれにせよ教頭キャラ的なヤツがまるで登場しない、影も形も見えないあたりが、学園モノの伝統としては潜在意識的に大きなポイントだ。右肩上がり的な経済成長が消滅した以上、その社会的性質をパロディ化したキャラクターを登場させても無意味ということか。もし無理やり登場させたとしても、乗るクルマはクラウンやクレスタではなく、アクアあたりに違いない。そのあたりが時代のナチュラルな縮小感というべきなのだろう。

 さて、いろいろとニュアンスの変遷があるといっても、サボるという言葉にはある一つの特徴が変わらず貫かれてきた。それは、サラリーマン的な「被用者」のライフスタイルに最適なコトバであり概念という点だ。

 しかし実体経済の衰退により、政府が公然と「お金に不自由なく一生を過ごしたいなら、誰も彼もが投資家になってよ!」と言い出してしまうこの昨今、実際、高級ショッピングエリアや高級住宅地で見かける人の多くは(ニオイでわかるように)マネー経済の世界を泳ぎながら生きている。投資の世界は「適切なタイミングでの売買」こそがすべてなので、サボるという感覚がそもそも存在しないといえる。

 ということで、カチグミな人々にとって、サボるという言葉は次第に忘却対象になってゆくのかもしれない。

 そして一事が万事、そういうことどもの累積で、格差社会化の進行により「上」と「下」の言語そのものの違いが生じてくるのかもしれず、これはよく考えると何気に怖い。今はネットを通じた情報の楽市楽座状態というか、皆がわりと等質な意味交換を行えているように見えるけど、それも、いずれ自然に階層分化していってしまう可能性がある。怖いのでとりあえず、社会階層の流動性確保って重要だよね! と言ってみる。弱々しく。

(第9回は10月31日公開予定です)


マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。

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