ニホンゴ「再定義」 第9回「アングラ」

「ニホンゴ再定義」第9回


 
 ぼくはつねにひとつのジレンマを抱えていた。どうしても結末より始まりが好きだということだ。推理小説を愛すればこそ、謎が解きあかされることに漠然とした落胆を覚えてしまうのだ。
 推理小説を書くにあたっていちばん厄介なのは、虚構の世界が現実ほどの謎には満ちてはいないという点にある。(中略)だからこそ、ぼくは大半の推理小説に落胆してしまうのだろう。そこに示される解答が、みずから蒔いた途方もない疑問に答えているとはとうてい思えないからだ。

  

 至言である。さすが天才シーラッハを(瞬間風速でとはいえ)倒しただけのことはあるといえよう。ちなみに私はゴードン氏が来日した際じかに会ったことがあるが、オタク系のナイスガイであった。「なぜみんなドストエフスキーをエンタメとして堪能してくれないんだ! あんなチョーおもしろいのに!」と真顔で言っていたのも印象的で、要するにそういう知性体である。ブラボー!

 さて、Jホラーを襲った「俗化」の主因がなんだったのかといえば、それはズバリ「市場拡大要求」だったと思われる。人気の勢いで展開した顧客層マシマシ化作戦のために、貞子も伽椰子も、不可解で理不尽な存在ではなく、現世的道理の枠内で理解・了解可能な存在へと変容せざるを得なかった。でないと愛され、親しまれにくいからである。だからけっきょく最終的に「貞子 vs 伽椰子、呪いの始球式!」とかやっちゃうんだよぉ!

ふざけるな。

と言いたい。だがしかし、幸か不幸かそれが市場原理というものであり、経済的社会に生きる以上、誰もこの要素を蔑ろにはできない。中長期的には文化面での衰退を招いてしまうと多くの人に予見可能であっても、短期的に確実な収益ゲットを目指す方針には逆らえないのだ。

 ……で、そんな状況の果てに出現した動画配信番組『フェイクドキュメンタリー「Q」』に、私は大いに惹かれたわけだ。あの世界で謎にまっとうな回答は与えられない。収束しない。もし収束するそぶりが見られるとすれば、それはさらなる「よき」深淵を見せつけるための準備に過ぎない。Jホラー原点回帰コンテンツあるいはそれ以上のものとして「そうそう、こういうのが観たかったんですよ!」という素晴らしい出来であり、その感触は『Q』プロデューサーの皆口大地氏も狙っていたそうな。曰く、世界のホラーファンが日本発のコンテンツに求めているのは「ナチュラルに和風」なネタと文脈とカビ臭く湿りきった空気感であり、妙に「国際化」を狙って洋モノっぽくした作品は、文化戦略的にもむしろ逆効果ではないか、と。

 私はその見解に完全同意であり、加えて原点回帰というならば「不可解で理不尽」の効用を挙げたい。といってもそれは非論理的な暴力性に由来するものではない。たとえばそれは、人間的道理では回収できない、異質で得体の知れない力学に沿って何かが蠢いている。一見、人間じみた情動(もしくはその残滓)が発生源かと思いきや、実は違う。語り手はその構造の片鱗を垣間見ることはできるが、全貌を知ることも適切に対処することもできない。そして語り手は、その得体の知れない何かに理不尽に侵食されてゆく、という文脈の効用だ。これは完全に「私がリスペクトするホラーとはこういうもの!」的な話なのだが、実際、時代を超えて価値を放つ優れたホラー作品の多くに窺える要素である。『Q』もまた然り。先に紹介したデイヴィッド・ゴードンの「結末のジレンマ」を克服するひとつのカギにもなりうる。

# BOOK LOVER*第22回* 北原里英
辻堂ゆめ「辻堂ホームズ子育て事件簿」第32回「消去法で残っただけの親」