ニホンゴ「再定義」 第9回「アングラ」
ここでポイントなのは、「観客」に一定以上の想像力と連想力を要求し、それをクリアした者のみが堪能を許される、という暗号的な契約関係の発生だろう。もちろん「なんだよぉコレ説明不足だろ! テキトーに誤魔化してんじゃねーよ!」とかイキってしまう残念系の客も一定割合で発生してしまうが、そういう人たちは、ただ満足ゆくまでイキっていればよいのである。そう、この構造は実に秘密クラブ的で、ゆえにサブカルからアングラに踏み込んだ文化形態といえる。そしてその効用は「コンテンツの質の維持」であり、よって、アングラの知的ハードルじみた要素は、サブカルの市場ニーズ優先的な要素に対してより深い意味で優位に立つ……という論理が成立する。
問題は、「売れるモノ」の情報拡散と浸透と消費サイクルのスピードが極大化し、人気が出ることイコール半年後にはすべての養分が消費され尽くして出がらしになってしまうこと、を意味しがちな現在の情報市場にて、いかに生き延びるかである。いかにアングラ的なコンテンツがアングラ的に、深夜放送的に深夜アニメ的にタモリ倶楽部的に、そこそこの人気と評価を保ちながら命脈を維持させるか。そう、そのつつましやかな隠微のうちに、ポリコレ文脈を微妙に躱しながら知的本質の何かしらを収束蓄積させることになれば、アングラ文化こそが「野心的な深みコンテンツ」の保護熟成エリアとして自らの価値を再定義することになるだろう。
……と、それが数日前までの文脈だった。実際、この項はそういう終わりになるはずだった。
が、しかし数日前に、モノゴトの別の角度に気づいてしまった。
『フェイクドキュメンタリー「Q」』は題名から「フェイク」と謳っている。つまりモキュメンタリー(偽ドキュメンタリー)のはずだ。そして、同種モキュメンタリー作品と比した場合に際立つ特徴として、登場する人物たちの雰囲気や物腰、口調などのあまりにもあまりな「自然さ」がある。いわゆるリアリティあふれるプロの演技というラインをちょっと超えた領域にあって、これが気味悪い。そう、人物の自然さこそが、実はコンテンツの不気味さの核心なのだ。フェイクという建前が実は嘘ではないのか? フェイクという名目でマジモノなヤバ系映像を配信するのがコンテンツ制作側の狙いなのではないか? という憶測が飛ぶのも無理はない。
それはまさにアングラ文化の核心要素のひとつ「えっこんなもの見ちゃっていいのかよ?」というタブーへの接近感ズバリそのものであり、そこには、先述した「秘密クラブっぽさ付加」にまつわるような排他的な面倒もない。
絵面の単なる自然さが、此岸と彼岸の境界線を無効化してしまう。エロもグロもなしに「これは何かとてつもなくヤバいのでは?」という禁忌本能をかきたてる。そして何らかの高度な思考の起点となる。実にイイカンジに深い。
そういえば『Q』では呪物処理の現場の「リアル生配信」という、異常に野心的というか実験的なこともやっていた。画面に映りこむスマホの YouTube コメント欄にもろに「俺たちのコトダマ」が流れてゆく、異界との生々しすぎる地続き感、というか大胆すぎる綱渡り感。これはやっぱり「一家みんなで楽しく味わう」的なシロモノじゃないよなぁ。やはり、陽の当たる場所にうかつに出てはいけない何かにこそ、カルチャーを超える挑発的なカウンターカルチャーの価値や本質は宿るのだ。私の場合、その地軸は「アングラ」の語をずっと貫き続けているのだが、この数日で変動があったように、そう、同じ語の中でも重心ポジションは変転を繰り返すのだ。
三年後に私がどのようにアングラ文化の価値本質を定義しているのかは、自分でもわからない。
(第10回は11月30日公開予定です)
マライ・メントライン
翻訳者・通訳者・エッセイスト。ドイツ最北部の町キール出身。2度の留学を経て、2008年より日本在住。ドイツ放送局のプロデューサーも務めながらウェブでも情報発信と多方面に活躍。著書に『ドイツ語エッセイ 笑うときにも真面目なんです』。