宇佐美まこと『鳥啼き魚の目は泪』
消えゆくものと残るもの
この小説は、ある落日の華族を描いたものです。明治維新後から八十年ほど続いた華族という特権階級のことは、現代人にはまったく馴染みのないものでしょう。しかし莫大な資産を持ち、広大な屋敷に住んで多くの使用人にかしずかれていた人々は確かにいて、そういう階級を頂いた社会も奇妙な秩序を保ちながら存在したのです。幕末維新の激動を経て、天皇中心の統一国家、そして戦後の民主主義の時代と移りゆく過程で、一種の緩衝帯としてこの貴族集団は時代に必要とされたのかもしれません。
話は、昭和八年に吉田房興という華族家の池の底から身元不明の白骨死体が見つかるところから始まります。それをきっかけとして、房興は広大な池を埋め立てて、かつて誰も手掛けたことのない斬新な枯山水の庭を造ることを決心します。そこに雇われたのが、新進気鋭の庭師、溝延兵衛でした。
家というものに取り込まれ、個を埋没させていた房興は、恵まれてはいたけれども、決して自分らしい豊かな人生を生きてきたわけではありませんでした。才能ある純朴な庭師に触れ、彼の生き様や、渾身の作品である庭を目の当たりにすることで、房興と彼の妻である韶子は自分自身を見つめ直します。
歴史上短命だった華族の対比として、石組みが特徴の枯山水の庭を置きました。一つははかなく消えていったもの。もう一つは長く残るものとして。
この後、世の中は戦争に向かって暗い方向にどんどん傾いていきます。不穏な時代背景と謎の白骨死体を巡る禍々しい事件とが絡み合いつつ、恐ろしくも哀しい結末へとなだれ込んでいくのです。運命に翻弄される吉田家も没落への道を突き進みます。これは滅びの物語であり、再生の物語でもあります。
私はここに二人の傍観者を立てました。韶子に仕える女中と、「清閒庭」と名付けられた庭とその作者である溝延を現代から見詰める作庭家です。彼らの視線は、過去と現代をつなげていきます。この作品を書いている間、あの時代に生きた人々の息吹や濃やかな心情を身近に感じられました。彼らは歴史から静かに退場し、彼らが愛した庭だけが残ったのです。
タイトルは「行く春や鳥啼き魚の目は泪」という松尾芭蕉の句から取りました。春に別れを告げつつ、愛しい人との別れも示唆する美しい句です
宇佐美まこと(うさみ・まこと)
1957年愛媛県生まれ。2006年に「るんびにの子供」で第1回「幽」怪談文学賞短編部門を受賞しデビュー。2017年『愚者の毒』で第70回日本推理作家協会賞長編部門受賞。『展望台のラプンツェル』が2019年「本の雑誌ベスト10」第1位、山本周五郎賞候補、『ボニン浄土』で大藪春彦賞候補。
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『鳥啼き魚の目は泪』
著/宇佐美まこと