こざわたまこ『教室のゴルディロックスゾーン』スピンオフ小説「消えた星の行方」

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「気が向いたら考えてみて。無理はしなくていいから。先生方も、さきのしたいようにするのがいちばんだって」

 校長室で卒業証書を渡すこともできるし、学校に来たくないならそれでもいい。先週、数ヶ月ぶりにこの家に訪れたクラス担任は、ドアの向こうでそんなことを言っていた。その時は卒業証書だけ、家に届けてくれるらしい。

 正直、そんなのどっちでもいい。どっちでもいいけど、どっちかを選ぶのも嫌だ。大人たちの言うことは、みんな同じだ。さきのしたいようにすればいい。でも、自分のしたいことなんてわからない。したくないことしかわからない。苦しい。苦しい。苦しい。

「さきがお世話になってるみなさんにも、いつか挨拶にいかなくちゃね」

 せっかくママが見つけてくれたフリースクールも、最近は全然通えていない。家から出ようとすると体が石のように固まって、そこから一歩も動けなくなる。外が怖い。人に会うのが怖い。玄関の扉を見ただけで、こんな風になってしまう自分が怖い。

「来週のことだけど。ママ、午後休取ったから。それまでは、家で待っててくれるかな。ねえ、さき。聞いてる? もしかして、おなか空いた? ……リビングにお弁当あるから、好きな時に食べてね」

 じゃあ、また来るね。その一言を最後に、声は途切れた。遠ざかっていく足音に、ほっと胸を撫で下ろす。ママの気配が完全になくなったのを確認して、ベッドからそろそろと降り立った。

 ママは昨年から、町の運送会社で事務の仕事を始めた。いつだったかリビングの電話で、最近は家のことまで手が回らない、と話しているのを聞いた。仕事から帰ってきて、化粧も落とさずソファでぐったりしているママを見ると、申し訳ない気持ちになる。

 すっかり埃の被った学習机に手を伸ばし、引き出しから一枚の洋封筒を手繰り寄せた。薄いミントグリーンのそれは、何度も開封するうちに、少ししわになってしまった。ベッドに腰掛け、中の手紙をそっと開く。そこには、懐かしい手書きの文字で、さきへ、と書いてあった。

 読み進めるうち、ぶるぶると手が震え出した。こんなもの、と指に力を込める。こんなもの、この世からなくなってしまえばいい。いっそのこと、破り捨ててしまおうか。帰って。帰れ。二度ともうここには来ないで。さっきだって、本当はそう叫びたかった。そうすればもう、こんな苦しい思いをしなくて済む――。

 そんなこと言って、ほんとにおのちんが来なくなったら、傷つくくせに。

 そう思った瞬間、どっと涙が溢れた。目の前の文字がにじむ。埃っぽいカーテンにくるまりながら、自分の声を必死で押し殺した。後から後から涙のしずくがこぼれ落ちて、パジャマの袖を濡らしていく。このまま消えてしまいたい。それができないなら、せめて透明になりたい。誰かがあたしの体をブルドーザーか何かでぺしゃんこに踏み潰してくれればいいのに。出来損ないのクッキーの生地みたいに、薄く、うすーくなったあたしの体が向こう側まで透けて、そのまま破けてしまうくらい。

 嗚咽おえつがおさまるのを待ってから、おもむろに顔を上げた。けほ、と小さな咳が漏れる。曇った窓ガラスを指で拭うと、すぐそこの通りを歩く親子連れの姿が見えた。仕事帰りらしきスーツ姿の女性と小さな男の子が、外灯の下で仲良く手をつないでいる。男の子が指さした先で、うすぼんやりした空に一番星がぽつんと浮かんでいた。

 まぶたの裏の世界は宇宙につながっているんだと、昔あたしに教えてくれた人がいた。あたしは、あの子の一番星になりたかった。あの子の世界で、一等きれいな星に。なのに、どこで間違えたんだろう。自分一人で輝くことも、上手に燃え尽きることもできないまま。周囲を巻き添えにしてまで、ただただ歪むことしかできない。それがあたしだ。

 ブラックホールに吸い込まれた光は、一度囚われたが最後、二度とそこから脱出できないらしい。それが本当なら、閉じ込められた光は今頃、どこを彷徨さまよい歩いているんだろう。ブラックホールが消滅したら、光も一緒に消えちゃうのかな。

 迷子の光も、いつかどこかに辿り着けますように。壊れかけのカーテンが作り出した不完全な暗闇の中で、あたしはふと、そんなことを思った。



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『教室のゴルディロックスゾーン』
こざわたまこ


こざわたまこ
1986年福島県生まれ。専修大学文学部卒。2012年「僕の災い」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞。同作を収録した『負け逃げ』でデビュー。その他の著書に『仕事は2番』『君には、言えない』(文庫化にあたり『君に言えなかったこと』から改題)がある。

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