『上流階級 富久丸百貨店外商部 Ⅳ』冒頭ためし読み!
ベストセラーシリーズ最新刊を、
ためし読み!
「私も白やサンドベージュのジャケットに黒をよく穿いたりするから、時と相手と場所さえまちがわなければいいよ」
そんな前振りから、サラダを食べ終わり、メインのチキンの香草焼きが出てくる間に話を本題へと向けた。
「今日はこうして、時間をとってくれてありがとう。私以外にも香野さんと知り合ったり、情報を交換したいと思っている人はいっぱいいると思う。前に大泉を助けてくれたときみたいに、家具にも詳しいなんて心強いね。いつもどんなふうに勉強している?」
「……とくに変わったことはしていなくて、日本で手に入りにくいものを手に入れたい人が使うアプリを、移動時間や待ち時間に見るようにしています。服やファッション小物はファッション誌があるけれど、撮影に使われた家具のメーカーや値段まで掲載されていることはあまりないので。BUYMAでは韓国系のお手頃なインテリアがネットドラマから火がついて人気で、もっとこだわる人はeBayを見ています。NY系とロンドンはほぼそれでカバーできるんじゃないかな。あとはインスタで、いいなと思ったものは発信者にすぐDMを送って聞いています。おしゃれな人とコネクションができるし、たいてい撮影場所をこだわって作っている人は、家具のメーカーや値段や販路まで記憶しているから」
「なるほど、すごく勉強になります。私もやってみよう」
本気で感心したので、鞄をあけて手帳に書き込んだ。
「香野さん独自のツールやコネクションがあることは理解しています。だけど、外商は手に入れにくいものを手に入れてナンボみたいな仕事なところもあるじゃない? 私とこうしてごはんしてくれているように、もっといろんな人に会ってみたらどうだろう」
自分ではできるだけ遠回しに話したつもりだが、すぐに彼女は自分がなんのために呼ばれたのかわかったようだった。そもそもなにか用がなければ平日の仕事上がりの時間にいっしょにいたりはしない。ある程度はお小言をいわれるかもしれないとの心づもりで来ていたのだろう。
「ランチ会に出ないことが問題ですか? それとも休みの日に社用スマホを切ってることでしょうか」
「休みの日に社用スマホを切ってるのはかまわない。ランチ会もそもそも義務じゃない。昼の休憩時間に仕事しろっていってるみたいで、こういうのが日本人の良くない習慣だっていうのもわかる」
ただ、と言葉を濁したのは、静緒なりに香野の気持ちに共感する部分もまた多かったからだ。
「いまはとにかく、コネクションを広げる時じゃないのかな。お客さんたちも、仕事でパーティによく行かれるでしょう。そこでしか仕事のチャンスが得られないってわかってるから、わざわざ着飾って出かけるんだよね。自分に投資をして、価値があるように見せることが仕事だし、投資家には安心感を与えるビジネス的な効果がある。それと同じじゃないかと私は思う」
我ながら詭弁の域を出ていないような気がしないでもない。しかし、ふんわり和を乱すな的感情論を持ち出すより、ぱっきりビジネスとして説明した方が彼女にはうけいれられるのではないかと思ったのだ。
香野は、一瞬ああという顔をした。そしてすぐには反論せず、メインのチキンを本当に美味しそうな顔をして味わった。その間のとりかたもうまいと静緒は感じた。なにかを食べながら、呑みながら仕事の話をする意義は、ネガティブに傾きかけていた思考にいったんストップをかけられる小道具があるという意味でも、古典的ながら有効なのである。
「アドヴァイスは大変ありがたいです。ありがとうございます。でもそれってひとそれぞれじゃないでしょうか」
「うん? 具体的にはどういう?」
「どういうやり方がじぶんにあっているか、わかっているのは自分だけだと思います。実際に、鮫島さんのやり方をやってみようとしたこともありましたが、自分には負担なだけでした。まったく日々に余裕がなくなって、人間関係にふりまわされて、仕事にも集中できなくなりました。自分のメンタルを壊してまでこだわるやり方なんてないと思います」
「なるほど……」
香野の言っていることも十分理解できるので、自然とうなずいてしまった。そのことに力を得たのか、彼女はいままで腹にためていたことをこの場で言うのにいい機会だと思ったらしい。珍しく自分の話をし始めた。
「接客業の好きなところは、その場その場で全力投球できるからです。もう二度と会わないお客さんかもしれないからこそ、相手を見て、相手のために尽くせる。だから自分にはあっているんじゃないかと思っていました。外商を希望したのは、少ない顧客のために自分のリソースを集中できるから。なおかつ外商システムこそが百貨店が持っている有益な資産だと考えているからです。薄利多売のECは次々に出てくる新しい敵と戦い続けなければならないし、自分が苦労して得たツールもすぐに古びてしまう。長く、確実に、そして利益率がよく、自分の人生にメリットの多い、喜びの多い仕事をしていきたいと思っています」
常日頃から意識していないと、こういう言葉は対面の場で出てこない。香野はまだ若いのに、自分自身の個性と、社会という大海においてどこで自分の能力を最大限に発揮できるか、おそらく十分に吟味して富久丸百貨店にやってきたに違いない。
(桜目かなみが気に入るはずだ)
気持ちがいいくらいぺろっとチキンを平らげると、彼女は少し考えてから残っていたパンに手をつけた。
「大事なのはゴールですよね。ゴールとは、私たち営業なら売り上げをあげること。たとえ旧来のネットワーク形成とコネクション内での仕事の回しあいが有益なツールであったとしても、そのやり方に合わない人間はいるはずです。私のような。そして、今までの社会は、そういう人間をはじいてきた。自分たちが作り上げたツールを使えない人間は仕事ができないと評価をしてきた。けれど、企業において一番のボトルネックは過去の成功体験です。華々しい成功をしたからこそ、それにすがる人間が多すぎる。私は、私という特性を認めて、別のやり方できちんと結果を出すところを鮫島さんに見ていただきたいと思っています」
彼女の言うことももっともであると静緒は感じた。持ち帰り吟味し、上長として判断すべき点は多々あれど、チームにとっても社にとっても有益な意見であることは確かだ。
「私やほかの営業たちにとっては、ランチ会は有益なツールだけれど、古い。それ以外のやり方で結果をきちんと出せるのであれば、評価してほしいということだね」
「はい。古いやり方だからやらないのではなく、自分自身に合っていないからです。それでストレスを抱えて仕事をしたくないんです」
「ランチ会は、香野さんにとってそんなにストレスなんだね」
「仕事時間内に最大の結果を出すほうが、仕事時間外も働いて結果を出すより効率が良くありませんか? 結果的に働き過ぎは体に負担をかけ、ミスを生みます」
「…………」
就業時間外も呼び出されればすぐに応じ、ひたすら顧客の要望を叶えようと昼も夜もなく働いてきた自分には返す言葉もない。
働き方改革については上も徹底しているし、外商であっても休みは必ずとることになっている。いまは申告していない人がいるけれど、そういうのはかえってマイナス評価にもなる、らしい。人事にいたことがないからよくは知らないが。
「話してくれたおかげで理解できたと思う。持ち帰ってよく考えてみます。最後にひとつだけ、質問いいかな」
「はい」
「香野さんは、地元の九州コネクションの話をよくしてくれたよね。長崎は中国やフィリピン、韓国なんかと距離的にも近いから経済界も密接で、顧客開拓のポテンシャルがあるって」
「はい、そうプレゼンしたことはあります。実際いまの新規顧客の大部分は九州つながりの方です」
「そういうコネクションは、いままでどうやって培ってきたのかな」
おいしそうにストロベリータルトを口に運んでいた彼女が急に手を止めたので、自分の口調が思っていた以上にきつかったのではないかと内省した。あわてて、
「あげあしとりのつもりはないの。私は単純にわからないから、教えてほしいと思っている」
「……そうか」
香野はフォークを置いて息を吸い、うん、と言った。
「たしかに、地元コネクションはそもそも仕事外の時間を費やしてつくったものですね。私が生まれて育った場所でのつきあいがベースになっているから。鮫島さんが言いたいことってそうですよね?」
「私は私自身の判断をもってしか言えないけれど、実際のところそうじゃないのかなと思う。それで、そういう担保は、……もちろん香野さんが努力をして積みあげてきた関係性ではあるけれど、ビジネス内だけでつくりあげたものじゃない。そもそも人を採用するときに、コネクションやその人の能力を加味しているわけだから、間違っているわけじゃない。ただ、採用前に築き上げた人脈は使い果たすときが必ずくる。そのときに、もう一度ゼロから地面を掘る体力が残っているかどうか。私は四十代になった人間として実感している。昔のようにはもうできないって」
彼女がパンとスープとサラダとチキンとスイーツを食べている間、静緒はチキンとサラダにしか手をつけなかった。楽しみなランチですら昔のように食べられなくなってくる。そういうふうに人は変化する。
(昔は焼き肉食べ放題にいくのがあんなに楽しみだったのに)
「若い自分にしかできない、四十代五十代の自分への投資があると思う。私はね。私のやり方だから香野さんに押しつける気はない。ただ、今日のことをいい機会と思って、もう一度この点をゆっくり考えてみてくれたらうれしい」
香野はいつものように歯切れよく、わかりました!と言い切り、静緒と向き合う時間が長くなるにもかかわらず、ストロベリータルトもその後でてきたコーヒーまできっちり飲みきってから帰宅した。
(すごい。神経が太いっていうよりは、強い。もはや強い種、輝かしい生命体だ)
日頃からメンタルが傷つかないように訓練しているからあんなふうに冷静に立ち回れるのだろうか。少なくとも静緒が二十七歳のときは毎日やることが多すぎて溺れていたように思う。そもそももう二十七歳のころの記憶もない。
ごちそうさまでしたと頭を下げて香野が気持ちよく去ったのも、自分との世代の違いを感じさせた。香野には出します悪いですなどの、昭和の人間にありがちな財布の押し問答をする選択肢はなかった。あの一瞬で、気持ちよく頭を下げて喜び、そのぶんを仕事か結果かツテで返す、もしくは自分のお客さんからのプレゼントがあるからトントン、のような計算をしたに違いなかった。いや、もしくはそのつもりでこの場に来たからこそ、最初から最後まで気持ちよさそうに食事をしていたのだ。
(私のほうこそ、なにか間違ったこと言わなかったかな)
コーヒーの苦みに脳の一部を刺激されながら、一人反省会をした。部下に対する敬意と敬語の割合にいつも悩む。砕けすぎてもいけない、固すぎても上から目線だと感じられてしまう。ローベルジュにいたときはほぼ外回りでパートさんに接する機会はほとんどなかったし、催事にいたときは一人で回すことも多かった。富久丸に来てからはバイヤーと企画で出張が多く、氷河期世代の人手不足もあってか一人で飛び回っていたから、自然と一匹狼であることを認知され、それを逆に評価されてもきた。あいつは自由にさせていたほうが結果を出すからほうっておこう、そんなふうに見られてきたことを自分でもよく自覚している。
(余計なことだったかな、余計なことだったかも。ああ、言わなければよかったかも……。彼女が自覚するまで待てばよかった?)
どこまでが指導で、どこからが干渉なのか。常に意識して自制しないと、静緒自身が古いツールにこだわる人間になってしまう。香野のいいところを伸ばすためにも、口を出すのはこれくらいにして、まずはお手並み拝見といくのがいいのかもしれない。
スマホのアラームが鳴った。午後六時半、本日最終の仕事は、鶴さんの家に大量の焼き菓子などを届けることだ。
フランスに留学中の孫の勇菜ちゃんが一時帰国していて、明後日リヨンのホームステイ先に戻るのである。ホームステイ先がラベンダーなどの香料の原料を生産するファームを南仏で経営しているとあって、勇菜ちゃんは今後フランスか、あるいはもう一つの香りの本場であるスイスで調香師の道を目指して勉学を積みたいと思っているらしい。
なにもやりたいことがないし、人に合わせるのがしんどいから学校に行きたくないと引きこもっていた小学生と、数年前南仏を旅した。それがめぐりめぐって、静緒の人生を大きく変えたようだ。歩くリマインダーのごとき鶴さんは、あらゆる茶話会でこのことを話しているらしく、鶴さん経由でうちに来てほしいと外商口座を作られたお客様も少なくない。
そんな勇菜ちゃんは、トランクケースいっぱいに日本の焼き菓子や和食を詰めて戻るそうで、できるだけたくさん日持ちするものをもってきてほしいと頼まれたのだ。
彼女の留学は彼女の通う私学の中学校が手配したものだが、それ以外の準備は静緒がした。毎月、鶴さんからは勇菜ちゃんへ向けて定期便があり、そこになにを入れて送ろうか思案するのは大変だが楽しい。
鶴さんに会って声をきくほうがずっと楽しいと思える日がくるなんて、人生はわからないものだ。いまでは静緒のほうが新作の食器や焼き物に詳しい。その場その場でお客さんに集中できることが結果的に仕事のパフォーマンスを上げる。結果にも結びつく。それこそが営業ではないかと香野も言っていた。彼女はそれでいい。いまはいい。しかしそうはいかないのが管理職なのだ。
***
両腕いっぱいに、用意した焼き菓子と餡子のお菓子(勇菜ちゃんのホストファミリーの好物なのだそうだ)、それに愛用の化粧水などのスキンケアセット(フランスのものは勇菜ちゃんに合わないらしく、そもそもアジアンの肌向けのものも少ない)。文房具とスニーカー。それに箸。パジャマにサニタリー用品などのある意味消耗品。ネットでなにもかも買える時代とはいえ、留学中の女の子が欲しいものを一人で買い物するところは限られるし不便なのだ。鶴さんと、勇菜ちゃんのお母さんから送られたリストを片手にすべて準備し、鶴さん宅に運び入れたが、そこでも留学中の話がはずんで、勇菜ちゃんがやっぱりあれもこれも持って帰りたいと言い出して、急遽翌日にも改めて伺うことになった。
たしかに海外で、縦書きの便せんは手に入りづらいだろう。同様の思いでいる当地の日本人会のご婦人方が多く、勇菜ちゃんは日頃リヨンでお世話になっているおばあちゃま方のために、ぬいぐるみを二つほど諦めて、便せんと味噌と佃煮と千枚漬けを詰め込むのだそうだ。
こういう仕事は本当に悪くない。売り場に立つ現場何十年の猛者に、こうこうこういうお客様にはどんなものが喜んでいただけるか、とあれこれ案を出してもらう時間は、販売員の醍醐味とも言える時間だ。おいなりさんを作るときのあぶらあげやお正月用品などはいくらあってもいいらしく、お祝い用の水引きや客用の割り箸などは外国人観光客などにもめずらしいとよく売れているという。ならば、海外では取り扱っていないということでもある。最近では古着の袋帯が、テーブルランナーとして外国人に人気で、袋になっている部分にカトラリーやナフキンを入れて飾るのだとか。
時期的にもよかったので、別便で鯉のぼりのセットも送ることになった。勇菜ちゃんが通う現地の日本人学校のお友達の家では、日本人のおばあちゃんが手作りで小さな小さな鯉のぼりと兜を作って五月の端午の節句に飾っていたが、もう修理も難しいくらいにくたびれてしまったそうだ。
『なんとか、鯉と吹き流しだけでも持って帰れないかな』
というわけで、鯉のぼりセットも海を渡ることになった。今はマンション住まいの人が多く、なかなか国旗掲揚台にかかげて見劣りしないレベルの巨大な鯉を作っているメーカーもない。結局鯉のぼり生産量日本一を誇る埼玉県加須市の老舗メーカーに在庫を掘り起こしてもらい、なんとか帰国便には間に合った。
「もう勇菜ちゃんはフランス語がペラペラなのよ。今度はおばあちゃまをリモージュに案内してあげるって。調香師をめざすのもいいけど、リモージュ大学にいくのもいいなって言ってくれてね。リモージュはルノワールが生まれて、島崎藤村が住んだこともある町なのよ」
アンティークのリモージュ食器が好きな鶴さんは、自分の趣味が高じて孫に影響を与え、その孫がフランスでのびのびと学業に励んでいることがうれしくてたまらないようで、月に一度は勇菜ちゃん進捗会が開かれる。先だっての鶴さんの夫が経営するデンタルクリニックチェーンの創立五十周年記念行事も静緒がすべて任され、ホテルオークラにて盛大な規模で執り行われた。グループ関係の法人外商もいまではほとんど富久丸が扱っている。会社のお中元やお歳暮、ご挨拶関係は包装紙で決まると言われ、付き合いを重視するので途中から変更になることはめったにない。便利なのは電鉄系、包装紙が必要なときは呉服系、と使い分けるお客様も多い。
鶴さんと勇菜ちゃんのことは、ただただ幸運だったと静緒は考えている。自分は教育者でも医者でもないから、不登校の子どものためにしてあげられることはほとんどない。実際、鶴さんが喜んでいる状況は、中学生のうちからフランスに留学した勇菜ちゃん自身のがんばりなのだ。たまたま勇菜ちゃんに話した静緒の若かったころの冒険譚がきっかけになっただけにすぎない。
(これを、意図して結果に出せる人がいたら、そういう人こそ本物の〝有能〟っていうんだろうな)
佐村さんのご紹介で息子さんの中学受験の話を聞いてほしいというご新規の方がさらに二件増えた。鞘師さんから新しい観葉植物をいれてほしいというオファーが来ている。先日新居のリフォームが完全に終わり、ルーフバルコニーに面したリビングの一部がガラス張りのサンルームになったので、そこをグリーンで埋め尽くしたいということだった。クローゼットも潰して洗面所と寝室をつなげ、ランドリールームからすぐクローゼットに服を運び込める海外風の動線になった。正面は公園ビューで抜けていて展望も最高だというのに、ブラックアイアン枠の天井までのガラスのしきりもおしゃれなカフェのようで、これ以上の女のすみかはない。ここまで別物になると、すでにこの物件を買いたかったという気持ちも霧散して、鞘師さんに買われてよかったねとさえ思う。
さらに、NIMAさんのためのオーシャンビューの物件探し、藤城雪子さんの息子さんのお祝い返しの手配、一歳のバースデーパーティはお披露目になるそうで、できれば一人暮らしで寂しくしている父を招いて盛大にしたいとおっしゃっていた。
長らく闘病されていた方が亡くなると、周囲の人間は急に目的を失って空虚になってしまうことがよくある。清家弥栄子さんの場合も数年ガンで闘病されていたから、ご主人をはじめとしたファミリーは、ひたすら弥栄子さんの病が治ることだけを第一に過ごしてきた。その強い願いが突然なくなると、なんのために生きていいのかわからず鬱っぽくなったり、自分でも意図しないほどのはげしい怒りに襲われたり、自己嫌悪の沼からぬけだせなくなったりもするようだ。娘さんたち三人は嫁がれてしまったぶん、一人残された父親を心配して、あれこれ連絡をしては孫とかかわるようにイベントごとなどを企画しているようだった。
あとは、おめでたいことながら、雪子さんのご主人がいよいよ商社での修行を終えて創業家が経営するグループの会社に入られるらしく、『いままでみたいに適当な格好でというわけにはいかないのでなんとかしてほしい』……つまり、スーツや身の回りのものをまるっと揃えてほしいというご依頼もあった。なにしろ雪子さんは幼稚園児と乳児の世話で夫の出勤着にまで気を配っていられない。やっと、芦屋伝統の乳母会からベテランのナニーが派遣されてきて、これで美容院に行けるとうれしそうだった。
(芦屋って、薪屋もそうだけど、いろんな地域独特の仕事があって驚く。おそるべきは乳母会のネットワークだよね。いいナニーに来てもらうために、兄弟が小学校高学年にさしかかる、子育てが終わりそうな家はつねにチェックされて、次はぜひうちに来て、なんて予約まで入るっていう……)
とにかくママ弁護士、ママ医師、ママ経営者が多い地域でもあるから、きちんとした経歴とコネクションのあるナニーは、狭い芦屋の家庭をぐるぐる回っているだけで仕事には困らない。ある意味外商と似ている。
一度、そのナニーネットワークを手に入れたいと思い、あれこれ苦心してコンタクトをとってみたのだがうまくいかなかった。富裕層はとにかくプライベートな情報が外に漏れることを嫌うため、おしゃべりで噂好きのナニーは雇わない。一瞬でも秘密を漏らしたことが噂になれば解雇され、その後の仕事も信用もなくなるから、そもそも静緒のような外部の営業とはなるべく接触をもたないのである。
それでも、菱屋には元ナニーの外商専門事務がいるとか、同じように元出入りの富裕層専門クリーニング店スタッフがいるとか。富久丸にも、富裕層専門の中古ブランド買い取り専門業者に勤めていた人間はいる。そもそもスポンサー以外のブランドを購入したことも秘密にしておかなければならないような芸能人なども多いため、そういう時は業者が自宅へ直接行って査定するか、もしくはすべて送りつけて処分してもらう。静緒のような外商が仲介をすることもある。
ああいう人たちの信用を得るには、地道な挨拶と付き合いが必須なのだが、香野のようなZ世代にはもっと効率がよく時代にマッチしているやり方があるのかもしれない。
ぎっしりと予定で埋まった一週間分のページを見てため息をついた。ああ明日も社用車でスタバのラテを呑むくらいが息抜きになるかもしれない。
(最近じゃ、出された茶菓子しか食べてないって日もあるしなあ)
四十にもなれば代謝が落ちて、三食きっちり食べなくても十分なのだが、パワーは出ない。
「自分にストレスをかけないやり方を選ぶ、か」
香野を応援したい気持ちもある。なぜなら、静緒自身が今もっとも彼女に同調しているからだ。成績は出す。自分のツールは磨く。だから好きにやらせてくれ、と。
「部下を育てるって、しんどいなあ。一生ヒラでいいから、成績は出すから、一匹狼のままで給料上がらないかな」
出世するためには、部下を育てなくてはならない。育てた部下を利用して上に上がるのでなければ、出世はみこめずすなわち給料はあがらない。だから、出世コースに乗れなかった自分の能力に自信のある堂上のような人間は、迷わず転職を選ぶ。
自分の機嫌をとるためには、つねに複数の選択肢を用意することだ。家を諦めれば転職はできる。なにもローンに頼らず、新天地で役員報酬をがっぽりもらえるようになれば、キャッシュ一括払いだって夢ではないのだ。ポジティブな方向に思考を向けるなら、むしろその余地について思いをはせているほうが健康にいい。
明日の朝一番に入っている、菊池屋からの刺客こと氷見塚マネージャーとの面談のことは、あまり考えないようにした。
菊池屋からきた美魔女上司のメイクを感心してながめているうちに定期面談の時間は過ぎ、部屋を出てすぐに部下やチームからの報告に目を通した。昨日の売り上げと今日の各自の予定、進捗を把握してから、鶴さんのXデーが一週間前に迫っていることに気づき、大急ぎでフロアに電話をかけまくって、外商サロンに持ってきてもらう商品の確認をするためにハイブランドで固められた天井の高い二階を詣でる。鶴さんのお好みは徹底していて、歯科医の夫人というだけあってあまり派手なロゴの入ったものを買われることは少ない。富裕層とつきあってきてだんだんわかってきたのが、一口でお金持ちといっても食にお金をかける人、装飾品にお金をかける人と、お金を使う対象への価値観が異なることだ。鶴さんはもともと製薬会社の創業家の生まれとあって、小さいころから良いものに囲まれて暮らしてきた。当然親戚は医者が多いし、環境的にも健康に対する意識が研ぎ澄まされてきたのだろう。食へのこだわりは徹底していて、そこから食器へ興味が移ったのだという。お金の使い方にもその人その人の歴史と、人生と性格が出る。
「セラミックはうちの家業ですからね。私が食器のコレクターになるのもしかたがないのよ」
いつだったか、勇菜ちゃんのことがあってずいぶんと打ち解けたあと、正式なディナーはこれでいただくのだとテーブルにずらりと並べてくださった白磁のディナーセットはKPMベルリンのもの。
「ナチスにドイツを追われた王立磁器製陶所職人たちが持ち出したもののうちのひとつなんですって。一九四四年には戦争のせいで一度窯を閉じて、戦後は移転しているしね。そういうものを食卓に出して、話題にすることって大事でしょう。うちでは原爆の日に必ずこれで食事をするようにしていたのよね。チャリティーパーティをするときなんかでも、いろいろ食器を持っていれば話題にことかかないのよ」
なるほど、歴史ある工房のアンティークを買い集めるには、好み以外にもそんな理由があったのかと、いまさらながらに目からうろこだった。鶴さんは最初の出会いこそよい印象はもたなかったが、つきあえばつきあうほど教養の深さを感じさせ、いわゆる富裕層のおつきあいの仕方やものの考え方を静緒に教えてくれる、よき先生でもあった。
外商サロンの奥にある専用の部屋は、特別なお客様のために作られた臨時のセレクトショップである。あまり店舗を歩き回ったりせず、気の置けないお友達と内々のおしゃべりに花を咲かせながら、好みのものだけを見てお買い物をしたいというお客様のために、担当外商員が腕によりをかけてブティックやメゾンの担当員と選び抜いた品を用意する。その日は、鶴さんが歯科医師会のお友達やお茶仲間を連れてきていたので、呉服担当やメゾンおすすめの帯留めやブローチ、スカーフなどの小物を中心に、上品だけれどメゾンの特徴がよく出ているセットアップスーツや靴などを揃えた。バッグは置いてあるだけでみなさま手にとってごらんになるので、特にこちらからは何も言わない。たいてい似たようなものはいくつかお持ちだからである。
「ディオールのこのバッグ、私たしか三十年くらい前に持ってたわ」
「これくらいのボストンバッグが流行ったのよねえ」
これは、話のネタのために仕込んだ復刻版のトロッターだ。皆様はお持ちになることはないだろうと思いつつ、どうですかとおすすめしてくれたのは大泉だった。
『上流階級 富久丸百貨店外商部 Ⅳ』
高殿 円