『上流階級 富久丸百貨店外商部 Ⅳ』冒頭ためし読み!

『上流階級4』冒頭ためし読み
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ためし読み!

第一章 外商員、部下を持つ

 

「おめでとう、ついに年商三億行きましたね」

 帰宅したら、ナパバレーと顔のいい年下の恋人ではない男がソファに寝っ転がって鮫島静緒を待っていた。

「なにしてんの?」

「なにって、お祝いですよ。今日は代休だし水曜だし、百貨店の人間は朝から店じまいがすり込まれてるんです。働いてるのはあなたくらい」

「……今時は水曜だって店開いてるけどなあ」

 静緒は玄関先のコートかけにたっぷりした袖のスプリングコートを掛けて、さっと手で皺をとった。一階は桝家修平、二階は静緒ときっちり生活エリアの分けられた同居暮らしではあるが、先年の冬くらいから、外から病気を持ち込まないようにアウターはなるべく玄関に置きっぱなしにすることになった。彼が二階にあがってくることはほとんどないけれど、静緒が呼ばれてリビングでワインなどを飲むことはよくある。職場の同僚、この部屋の持ち主で元上司の葉鳥をはさんだライバル(?)、なりゆきによる同居を経ていまでは友人というよりは親密で、家族というには法的根拠のない不思議な関係を築きつつある。

「オーパス・ワンといきたかったんですが、あなたが気にすると思って」

 と、彼が取り出してきたのはナパバレーのワインの中でも比較的手頃な値段で楽しめると評判のナパ・ハイランズ。バカラのワイングラスとテーブルの上に並べられたしっとりとした赤身肉のローストビーフとおろしたてのわさび、そしてワインボトルのラベルを見て思わず微笑みそうになる。

 年代も育ちも性別も好みも、そして働き方や人生の意義すら違う桝家との唯一の共通の趣味がこのワイン好きという点だ。ワイン好きというか、酒好きというか、食へのこだわりというか。勤務する富久丸百貨店のお給料で暮らす静緒にとっては、五千円はするナパ・ハイランズですら大事にちみちみと飲む酒だが、たっぷりとした財形信託資産に守られた京都育ちのボンの彼にとっては水のようなもの。いつだったか、南極からとりよせた氷より安いですよと言ってのけたほどである。

「ちょっと待ってね、顔だけ洗うから」

 すでに宴会の準備が整っているとあっては優雅にシャワーを浴びている場合ではない。ばばっと仕事用の服を脱ぎ捨て洗濯機につっこんで、愛用のジャージに着替えて一気に階段を駆け下りた。

「ま、オーパス・ワンを開けてもよかったんですよ?」

「五万以上するワインをなりゆきで飲めるか」

「だって三億ですよ。これで全国の外商のトップ10に入ったじゃないですか!」

 外商員の売り上げ状況は、最近ではすべて共有化されていて、会社から支給された iPad からは、もちろん全国の外商員の売り上げが把握できる。これが昨日だれがいくら売ったのか日々更新されるなかなかの地獄のシステムだ。今までふんわりとしか聞いていなかった東京や神奈川埼玉エリアの外商員たちの手堅く大きな商売ぶりが、このノートより小さい電子機器を通じて静緒たちにはっぱをかける。

 外商員になって四年目。洋菓子のフロアに立っていた頃を含めれば百貨店勤務は二十年を超えた。富久丸に入社してからはバイヤーや新規部門でそれなりの結果を出し、外商として葉鳥の顧客を引き継ぎつつ、新規顧客を開拓してきた。最近では売り上げの半分以上を自分がご縁をもったお客さんが占めている。新規獲得数、月間売り上げと半期ごとに二度表彰されそれなりに上からも注目されていることは感じていたが、締め日を経て今年度の売り上げが出そろい、その中でも十位に食い込んだのは誇らしい。

「東京店の馬淵さんが定年になったからだよ」

 と定番の謙遜を口にしながらも、売り上げトップ10のエクセルデータは思わず記念にスクショしてしまった。

「まあ、トップ10ていっても一瞬だけ。本物のトップ10は毎年不動だから」

「とはいえトップ10だって最初からトップ10だったわけじゃない。会社はあなたがそうなってくれるよう期待してますよ」

 オーナーのロスチャイルドに「一杯のグラスワインはメロディ」だと思わせたカリフォルニアワインの王様オーパス・ワンのお隣の畑でとれた親戚のようなワインがナパ・ハイランズだ。ボヘミアンガラスのシャンデリアの光をはじいてきらめくバカラのワイングラス、その中身は美しくとろっとした味わいが口内にここちよくて、あっという間に飲み干してしまった。

「トップ10はずーっとトップ10だからね。平均十億、上は三十億だし」

「どうやったら三十億も毎年使わせられるんでしょうね。車買って時計買ってもまだ余る。東京の菱屋の客なら付き合いの買い物も伝統のうちかもしれないですけど」

 ゆっくりと、山のわき水が見たこともない遠い海を目指すように話の流れが変化する。ワインと肉でいい気分になっていた静緒も、桝家がなにを話したくてこの席を用意したのかわかっている。

 長い付き合いだ。同居をはじめてもう四年になろうとしている。その間にこんなたあいもないことでお祝いする夜は幾度もあった。

「それで」

「はい」

「合併の話ね」

 ふふ、と桝家が笑う。なにか悪巧みをしているときの顔は黒々とした大きな目が輝くので、彼は詐欺師にはまったく向いていない。

「なにか聞いてませんか、上から」

 チョコレートボンボンを入れるアンティーク容器の蓋をあけると、中に成城石井で買ったのだろう見覚えのあるカッティングチーズが姿を現した。

「合併、合併なああああ」

 自分の身よりも大切なワイングラスをそっとテーブルに置き、勢いよくソファに仰向けに倒れた。

 静緒と桝家の勤務する富久丸百貨店が、近江菊池屋と合併するのではないか、という話はもう五年以上前から出ていた。富久丸だけの話ではなく、この十年だけで各地の百貨店の合併、再編が次々に行われている。銀座の一甲が電鉄系の南鉄百貨店と合併をすると大々的に報じられ、すったもんだのあげく婚約しては破棄、婚約しては破棄を数度繰り返したのち、もともとの親会社である東洋宝飾ホールディングスの融資を受けて、完全に合併の話を白紙にもどしたことがあってからは、特に珍しい話ではなくなった。

「だいたい裕福な電鉄系と、商売に行き詰まってる元呉服屋系が政略結婚をするみたいなもんじゃないですか。菱屋さんとことか百紋さんとことかもみんな私鉄と結婚したし、うちもそうなるんじゃないかと予測してましたよ。まさか相手がほんとに菊池屋とは思わなかったですけど」

 業界の隠語で、特に電鉄系の百貨店の人が自分たちをへりくだって『野武士』と表現することがある。それと比べて歴史と格式のある呉服屋系は『貴族』で『公家』というわけだ。お金のあるところが、お金を出して格式を買う、文字通り政略結婚というわけで、菊池屋との合併話が持ち上がった後も、内部では同じような呉服屋系同士の結婚になんの意味があるのか、どうせ流れるだろうと思われていた。

 それが、この年明けのバレンタインセール真っ最中の社内に、急転直下の正式合併決定の内部砲が響き渡ったのだ。

「……まあでもさ、二年くらいまえから菊池屋さんとこの幹部がウチにきたりとかしてたじゃない? ちいさい会社ちょこちょこいっしょに作ったりとか、ナントカ戦略ってていのいい名前つけて人やりとりしたりとか」

「堂上満嘉寿がいたとこのボス、そういえばあの人菊池屋のマネージャーだったか」

 さらっと元彼の名前を出すところをみると、今はもうわだかまりもないのか、それとも逆に親しくなったのか。

(わからん、特に人の交友関係に関する心の機微はようわからん……)

 静緒や桝家の所属する外商、組織改編後は新営業十一課は個人外商専門の部署で、ここと法人外商の部署をとりまとめる統括部長の直属にいくつかの戦略企画室がくっついている。物を売るにはものを仕入れなければならないが、なにを仕入れるかはバイヤーの腕次第。バイヤーのセンスとルートが店の売り上げに直結しているとあって、ここには各フロア、部署の腕に覚えのある猛者たちが配属されるときく。

「そもそも、ウチと菊池屋でうまくやっていけるんですかね?」

「……おんなじことを菊池屋さんのほうも思ってるんじゃない?」

 菱屋や百紋の合併がうまくいっている(ように見える、あくまで外部から見たらだが)のは、相手が電鉄系だからだ。電鉄の商売は呉服系とはまったく違う。あくまで土地の上に電車を走らせ、街を作ってそこに人を集め、集まった人に買ってもらう商売である。だから電鉄系の百貨店は外商客を増やすことはあまりしない。ほうっておいても巨大な自社ホールディングスの社員が出世して役員になり高給取りになり、いわゆる『貴族』の仲間入りをするからである。だから、出世した自社の社員がすべて百貨店の外商になればいいわけで、長年富久丸の課題でもある客の新陳代謝も、電鉄系ならなんなくどんどん進む。

 反対に呉服系の百貨店は電車という最強の武器を持たないため、あくまで小売りが基本になる。贈り物の包装紙が発する「ウチは商いでここまでやってきた店です」圧がすべてであり、店が本丸だ。

 だからこそ、電鉄と店の結婚はうまくいってきた。合併してもやり方があまりにも違うので、「それぞれでやりましょう」と棲み分けがすんなりいったのである。

 しかし、富久丸と菊池屋ではそうはいかない。

「菊池屋さんは近江商人で、もともと船場の商社から分裂したから、そっちの商社の方とまたいっしょになるんだとみんな思ってたんだよね」

「ウチとは先々代が堂島のころのご縁でってことになったらしいねえ」

 富久丸百貨店の一号店は元町だが、街の賑わいが神戸港のもたらす富から電力消費のできる大阪に移ってからは、本店は堂島ということになっている。

「格式でいうと、菊池屋さんのが上……?」

「いや、そういうわけでもない、かも。でも上かな。あっちは東京の日本橋にも店があるし」

 つまりこの合併には、東京にすんなり進出したかった富久丸と、本家の商社と電鉄系を天秤にかけ続けて縁をのがした旧家のお嬢様の菊池屋が、やや旬をのがした結婚にようやくこぎつけた感がある。

「お互いに残り物ってことですかね」

「なにいってんの。福があるってことでしょ」

「まあ、むこうは滋賀・名古屋・関東がメインだし、こっちは地方と近畿圏ってことで、合併したってそんなに交わらないんじゃないですか」

 このような見方はなにも桝家だけのものではなく、富久丸百貨店に勤める社員は同様の感触を持っていた。まあ言っても出発点が同じ呉服屋系列とはいえ、いまでも京都や名古屋にがっつり呉服商売をしている菊池屋と、開業が船場・神戸でも舶来品をメインに販路を拡大してきた富久丸では店が大事にしている客筋やポリシーも違う。そもそも富久丸という名前は、創業者が行き交う船を見て、商売は航海と同じ、店員はその役職に関わらず同じ船に乗っているも同じなのだから助け合わなければならないと、船の名前をつけたのだという。その伝統なのか、いまでも会議や大きな方針が決まる前には、必ずといっていいほど「同じ船に乗っている」ことが強調される。

「今の時代にそれもどうかと思うけど」

 と、その夜は京都のぼんぼんパワーに甘えてワインを二本空け、さすがに休日前でもないのに飲み過ぎたと反省半分、開き直り半分で出社した。

 

 今朝も景気のいいことに、静緒の社用スマホにはお客様たちからバンバン注文が入っている。売れっ子イラストレーターのNIMAさんからは、鞘師さんの家探しを手伝ったことがばれて、自分にも家を探してほしいと言われている。しかし、NIMAさんは世界中が知っているレベルの有名キャラクターの著作権者で、現在のお住まいは芦屋浜に開業したばかりの会員制ラグジュアリーホテルだ。これ以上の物件を近場で探してほしいと言われても、静緒でもギリギリ手が出るマンションを買った鞘師さんとは話が違う。

(とはいえ、鞘師さんはキャッシュで五千万ぽんと出せる投資家なんだけど)

 親が用意していた嫁入り資金を原資にしてひと資産を稼いだ鞘師さんは、二年で種にしたお金を親に返し、それ以降は自己資金を投資してきたらしい。それでももともとは親のお金だからと、親の意向に逆らったり実家を飛び出すことには罪悪感を覚えていたそうだ。それがついに年末、強行家出を実行した。

 静緒が悩みに悩んだ末に購入希望を出したマンションを、そうとは知らない鞘師さんに目の前でかっさらわれたことはまあいい。鞘師さんは新居のインテリアコーディネートのために一千万も使ってくれたのでは恨みも悔いもない。問題は、今でも親が四十にもなった娘の家出先を必死に捜していることで、「そろそろ探偵に捜し当てられそう」と鞘師さんから相談のメールが来ていることだった。親がストーカーの客というのも新しい話だ。

(NIMAさんからも、また話を聞いて欲しいとワインと牛肉のオーダーが入っているし、さて、いつ時間を作ろう)

 最近、桝家が言うように静緒の成績が絶好調な理由がある。外商部に転属になって四年、こつこつと築き上げてきた信頼と、口コミによるお客さんの紹介が後を絶たないのだ。まず大きな転機になったのが、洋食器コレクターの鶴さんの紹介である。気むずかし屋でつねに物事を斜めに見ているようなお客さんではあるが、ああいうタイプの人は一度懐に入ると家族同然に接してくれるものだ。鶴さんにとって心配の種だった登校拒否気味の孫の勇菜ちゃんが、無事進学を終え、人生の目標を見つけてそれに向かって邁進していることがうれしくてたまらないらしい。

 鶴さん自身、中学二年生の秋からフランスへ留学している勇菜ちゃんを訪ねて頻繁に海外に出かけている。ボケるひまもないわ、と常に上機嫌だ。

 鶴さんのような人は強力な口コミ力と独自のサロンをもっているもので、鶴さん経由で増えたお客さんは実に二十人はくだらない。どの方も鶴さんと同じく、古い時代の結婚観のもとにお見合い結婚をして婿をとり、あるいはそこそこの家同士でくっついて家庭を形成されてきたので、みなさま絵に描いたような何不自由のない老後をお暮らしである。高価なものはある程度見慣れてきたはずの静緒でも、自分の年収を秒で使い果たす人々の買い物には、何度立ち会ってもドキドキしてしまうものだ。

 そんな鶴さんから、また新たなお客さんを紹介したいというメールが入っていた。

 雑草のようにしぶとく、学歴もないのにキャリアだけでのし上がった伝説に尾ひれはひれがついて、最近は「静緒に会ってみたい」というお客さんが後を絶たないのだ。自分の評判がいいことはありがたいが、当たりくじというかお守りというか、過大評価されている感は否めない。

 自分に出来ることは、お客さんに寄り添うことだけだ。そのために店で買い物をしてお金を使ってくれるお客さんもいる。外商部に来たころにはどうにも慣れなかったが、最近はお金を使う方法にもいろいろあるのだと実感するようになった。たとえばバーやカフェは飲食を目的とする場所貸しではあるが、実際は店員とのおしゃべりを楽しみに通う客も多い。お金を使う目的はお客さん次第であり、それは払ってもらう立場がどうこう言うことでもない。お互いに気持ちよくやりとりが成立するのであれば。

 芦屋川の急な坂をハイカットのスニーカーで降りる。昔なら、お客さんに見られているかもしれないのにスニーカーなんてと咎められただろうが、最近はそういうこともない。店に出ているときはパンプスでも、通勤時間はあくまでプライベートだ。当たり前のようだった休日出勤やサービス残業も少なくなってきた。

 時代だな、と思う。そういえば自分と同じく駅に向かう通勤仲間にも、ラフな格好の人々が増えている。桝家なんかはその典型で、ゼニアのスーツにルブタンのスニーカーで訪問してもそれが仕事になる男だ(実際、ゼニアのスーツもルブタンのスニーカーも複数売った)。

 仕事のかたちはゆっくりと変わっていく。自分が成長するよりも速く。それが近頃は少し焦る。焦ったところでどうしようもないのに、である。

 



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