『上流階級 富久丸百貨店外商部 Ⅳ』冒頭ためし読み!
ベストセラーシリーズ最新刊を、
ためし読み!
とにかく毎日時間が無い。あっという間に季節が、半年が過ぎ去っていってしまう。社会人を始めたころは、あれこれ将来について悩んだり、人間関係にふりまわされたりすることも多かった。けれど、いつの間にかそんな時間すら持てずに日々を過ごしている。
(去年、私、なにしてたんだっけ)
去年のスケジュールをアプリで確認した。ああ、そういえば母のために家を探していたのだった。その前の年は、外商の仕事を覚えるためにとにかく勉強会漬けでプライベートはまったくなかった。みなが遠巻きに自分を見ているのがわかって悩んだりもした。桝家との関係もいまのようによくはなかった。
(私、そもそもなにに悩んでいたんだっけ)
日々の忙しさは、自分自身の存在をも忘れさせる。生きている感覚が鈍くなる。やらなければいけないことはわかっている。母と暮らす家、終の棲家。いずれ動けなくなって働けなくなることを想定して、十年後を見据える歳になった。桝家が言うように、ずっと健康でいられる保証はなにもない。そのときのために今なにができるか。
(わかっている。わかっているからこそ、転職も考えた。なにかあったときに自分を助けてあげられるのはお金だ。母も介護になる。私が面倒をみなくちゃならない。でも自分から仕事をとったら生きがいをなくしてしまうタイプだとよくわかっている。働き続けながら、将来に保険をかけるためには、家とお金だ。だから合併のゴタゴタやほとぼりが冷めたら、また堂上さんに連絡して……)
社用のスマホにメッセージが入り、画面が明るくなった。大泉からの訪問の連絡だ。彼女に引き継いだある資産家の家の奥様が、ご主人の誕生日プレゼントを探しているのだという。いろいろ考えてはいるが、自分はご主人に会ったことがないので静緒の意見を聞きたいとのことだった。
『会社用のマグカップはビールジョッキくらい大きいものがお好みだから安定感重視で。同封するジュエリーはネクタイピンがいいと思う。おしゃれな方でお仕事は会合が多いから、縁起物やご自身の星座関連のもの、ダイヤ以外では青い石がお好きです』
しばらくして、大泉からいくつかの写真が送られてきた。ブルーダイヤモンドをあしらったご自身の星座のものを選んだ。ネクタイピンはいくつもお持ちだが、こういうデザインのものは今までにもあまりなかったように思う。
エルメスのブルーダイユールが生産終了になるので、マグカップはそれがいいのではないか、と意見を加えて、あとは彼女に任せた。
ふと、香野や大泉へ振り分ける仕事のことを思いだして、手帳に書き込んだ。まだ自分は手帳が便利だが、香野たちはもうスマホやタブレット一本でタスク管理をしている。デジタルネイティブである世代の台頭はあっというまだ。静緒がのんびり自分のことに気をとられている間にも、若手は結果を出し独立する。今回のヨージ・イザキとローベルジュのEC専門合弁会社などという新しい分野では静緒よりもっと若く、勢いのある有能な人材が見つかれば、自分など必要なくなる。いつまでも自分の席がある、必要とされていると思うのは危険だ。
席があるうちに転職したほうがいい。自分に価値があるうちに動いたほうがいい。あたまでは理解しているのに、うまく動く気になれない。合併のゴタゴタが終わったら、部下への引き継ぎが一段落したら……、などは自分が自分自身を納得させるために用意した理由だ。同僚や先輩たちが合併を機に転職したのと同じように静緒だって動けばよかったのだ。
(家、とにかくローンを組んでしまわないと。そしたら動ける。母に連絡して物件を見に行ってもらおう)
歳をとるたび、息を吸うように〝しない〟理由を見つけるのがうまくなる。今までの自分は〝する〟理由を選んできたのにこの変わり様だ。気づかないうちに変わるのは季節だけではないようだった。
第二章 外商員、社内政治を知る
八太さんから、無事瑛子さんの両親との顔合わせもすみ、婚約指輪を買いにいく段階になったとの連絡があり、時任さんにお礼もかねて八階へ顔を出した。その後、イラストレーターのNIMAさんから、すき焼き用神戸牛など、おいしいものを見繕ってもってきてほしいというオファーをいただいていたので、地下へ赴いた。NIMAさんは現在、芦屋浜のマリーナ横に近年建ったばかりの会員制ラグジュアリーホテルに仮住まいしている。まるで白亜の豪華客船が停泊しているようなそのホテルは、同系列の宿泊施設が東京や軽井沢、ニセコ、沖縄など日本の名だたる高級リゾートにもあり、会員権を購入することで施設を利用し、宿泊、あるいは居住することができる。NIMAさんは独身でいまのところ恋人もいない。親戚と両親、兄弟のいないほぼ天涯孤独の身の上ということで、不動産を購入しても意味が無いと、定住できる場所を求めてまずはレンタルでいろいろ住んでみているというお客様だった。そんな彼女が静緒と知り合い、毎月の売り上げの何パーセントかを占める上顧客になったのには、ある理由があった。
「知ってる? 鮫島さん。裁判の日ってね、期日っていうんだって。私たちはあんまり使わない言葉だよね」
NIMAさんは、自分が制作し発表したイラストやキャラクターを含む世界観を、さまざまな会社に貸し出して利益を得ている。今では世界中にファンを持つ有名なイラストレーターだが、もともとはTwitterやブログで細々と好きなイラストを発表しつづけているだけの無名のアマチュアだった。
当然、会社でデザイナーとして働いたこともなく、法律の知識にも乏しい彼女は、自分の描いたイラストが巨万の富を得るようになるとは夢にも思わず、毎日せっせと描いてはフォロワーの反応を楽しみにしていた。そんな彼女のもとへ、ぽつぽつと企業などからイラストを使わせてほしい、絵本を出さないか、などの依頼が舞い込むようになった。
当然、最初の方はアマチュアの描いた絵だと、無償で使われたことも多かった。そのうち、ネットでも適正価格など知識の共有を呼びかける動きがあり、NIMAさんもきちんとした契約を結ぶことの重要さを理解するようになったが、問題は半プロだったころになあなあのまま貸し出していたコンテンツだった。
きっかけはNIMAさんが、イベント制作会社のアシスタントから、SNSで誹謗中傷を受けたことだった。すぐに相手を特定することができ、イベントの制作会社側も非を認め謝った。当の誹謗中傷をしたスタッフはすぐに馘になり、事態は収拾するかのように思えた。しかし、今回のことで深く傷ついたNIMAさんが会社側に不信感を募らせ、コンテンツを貸し出すのをやめたいと言い出すと、先方の制作会社は急に手の平を返した。正式な契約書を結んでいなかったことを盾にとり、すべてのライセンスは制作会社側にあり、NIMAさんは依頼を受けてキャラクターをデザインしたにすぎない、と主張をしてきたのである。
「あの交渉ね、先生たちががんばってくれているんだけど、ちょっと前からびっくりする展開になってきた」
「どんなふうになりましたか」
「相手の制作会社が、バンバンイベント打ちだしはじめた。いままでは年に二回、ファンイベントを開催したり、グッズを作って大規模なイベントに参加したりするぐらいだったのに、自分たちが主催して興行を打つんだって。それもなんだかんだで二ヶ月くらい。ショートアニメにもするらしい」
「え、アニメにもですか。それって、わりと大きなプロジェクトですね」
静緒もそこまで詳しいわけではないが、アニメーションになるとあっては、制作費だけではなく、どのプラットフォームで流すかなど、億のお金が動くことになる。
「製作委員会方式になってるけど、ほかはソフトコンテンツビジネスに出資しておきたいだけの言いなりの投資会社だもん。実質はこの会社が単独で制作しているようなもん」
「でも、NIMAさんは許可を出していませんよね? それでも制作できるんですか?」
「許可もなにも、弁護士立ててるんだよ? でも向こうは聞く耳をもたない。人のつくったキャラクターをバンバン勝手に使って、グッズ作って、イベント打って、今度はアニメにしようとさえしてる。私の許可なんていらないって態度なんだよ。なんせ、著作権はあっちにあるって開き直ってるんだから」
NIMAさんが新たに立てた代理人の先生によると、相手方がこういう態度をとってきた場合、いくらこちらが真摯な態度で申し入れをしようとも、無視して小銭稼ぎのために無茶な企画をたてまくり、勝手をしまくるだろうということだった。
「やったもん勝ちってやつだね」
ホテル内でも十室しかない、長期滞在型ラグジュアリースイートの広々としたルーフデッキで、静緒とNIMAさんはしみじみと肉を焼き、ワインを飲んだ。このホテル内には各種レストランだけではなく、プールやジムやエステ、はては美容外科やカウンセリング、ボルタリングやペットクリニックなども入っていてまさに小さな街そのものなのだが、どんなに高級で美味しい食事でも三日も通えば飽きる。やはりだれかと食べる食事がいちばんおいしいから、と彼女は分厚いザブトン肉をひっくりかえしながら言った。
「あれからネットを探してみたら、自分と同じような目にあってるクリエイター、たくさんいた。誹謗中傷への対処については、弁護士サイドもこれから増えると見越して、積極的にSNSで情報を提供してるみたい。芸能人がスルーせずに法的措置をとったことをニュースにしてくれるから、だいぶ抑止力にはなってるだろうけど」
最初はネットでの誹謗中傷問題だったのが、思わぬところに飛び火して、NIMAさんは自分の作品を制作会社に盗まれようとしている。一度心が折れかけていたNIMAさんを救ったのは、富久丸百貨店で自分を奮い立たせるために買った強いダイヤだった。そのダイヤのリングは、いまもNIMAさんの薬指にはまっている。五百万円のブルーダイヤ。しかし、今回の係争にかかる費用はそれの上をいくだろう。
「ほとんどのクリエイターは、そんなお金出せない。だから泣き寝入りするしかない。うちの相手の制作会社も、似たようなことしてる悪徳も、こっちがフリーランスの、女一人だと思って舐めてかかってる。ちょっと書面で脅せばびびると思ってる。そういうことをやってきたから、息をすうように同じことをやる。だれかが止めないとだめだよ」
と言ってNIMAさんが静緒に見せてくれたのは、一枚の書類だった。
「仮処分を申し立てることにした」
「仮処分、ですか。企業が倒産するときに、債権者が資産の散財などを恐れて裁判所に申し立てたりする、あの仮処分ですよね」
「そう。この調子でのらりくらりやってても、向こうはバンバンイベント打って、勝手にアニメにして、私の作品を使って勝手に儲ける。だからそれを阻止するためには仮処分のシステムを活用して、アニメ化とイベントを阻止する。といってもアニメ化は時間がかかるし、どこのスタジオに依頼してるかわからなければ手の打ちようがないので、まずは告知のあったイベントを阻止する。もう何年も声をあててくれている声優さんたちを呼んで朗読劇をするんだけど、それが千人とか入れるわりと大きな規模で、すごくいやらしい言い方をすればまとまったお金になるみたい。主催しているから総取りってやつだね。それを止めるための申し立てをする」
実際には、「被保全権利」つまり申し立て人がそれを申し立てする理由と権利を明白にし「保全の必要性」を証明する書類を地方裁判所に提出する。すべて代理人がやってくれるので、NIMAさんがわざわざ東京に行く必要はない。
「仮処分を申し立てれば、イベントを止められるのですか?」
「ううん。たぶん無理」
女二人で六百グラムの肉をぺろりと食べてしまった。瀬戸内の夜景を独り占めできる贅沢なルーフバルコニーはすぐに風に洗い流され、立ち上がった肉の匂いも夜の海へとすいこまれた。
「先生たちが言うには、仮処分が成立するには保全される……、つまり、イベントなどはもうチケットを売り出してしまっているから、その分の保証金を用意だてないといけないみたいなのね」
その額数千万と聞いて、思わずワインを注ぐ手が止まった。
「数千万ですか」
「そう。あくまで個人には難しいよね。司法案件にする難しさを毎回ひしひしと感じてるよ。仮処分を成立させるために担保金がいるなんて一般人は知らないし、知ってもどうしようもできないもん」
あくまで企業同士の係争ツールなのだ、と静緒でさえ理解できる。
「おそらく担当はまだ若手の書記官になるだろうって先生たちは言ってる。ボス先生は裁判所に長くお勤めだったみたいで、だれに当たるかはもうクジみたいなものだとおっしゃってた。若手の、しかも判事でもない書記官が、すでにチケットを売り出してる案件をストップさせて、一部だろうけれど社会的に混乱を招くだろう処分を認められるか、というと難しいんじゃないか」
「裁判所のひとたちも、人間っていうことですよね」
「そうなんだよね。法があっても、人の気持ちのほうがずっと影響は大きいんだなって思った」
先生たちの狙いは、本件で仮処分を成立させることではないようだ。仮処分はスピード重視だから、今回もイベント当日までに結論を出すために、いつもの裁判の三倍以上の速さで審議が進むという。たとえ仮処分が却下されても一度審議された内容は残るから、正式な裁判のときのスピード感が変わってくる。
「なるほど、狙いはあくまで本裁判で、裁判自体を短くストレスなく進めるための前準備というわけですね」
「そうそう。プロの人たちはそんなふうに作戦をたてるんだなって勉強にもなる。あくまでゴールは著作権侵害を認めさせること。勝手に著作権を主張しているあっちの会社の主張をこてんぱんにすること」
肉を焼き終わり、今日までの進捗報告が終わったところで、NIMAさんは静緒を呼びつけた本題に入った。
「あのね、鮫島さん。私、いまわりと大きな仕事をいただいていてね、世界と仕事をするチャンスなんだ」
いままで手をつけていなかった法人化、さらに国際的なライセンス管理を委託できる会社との面談など、NIMAさんは自分が生み出したイラストを武器に本格的に事業を大きくしようと考えているようだった。
「いろんな会社からアプローチがある。でも今回のことで、いままで後回しにしてきたことから目を背けちゃダメだってわかったのと同時に、たった百四十字の日本語がこんなに簡単に人を傷つけるんだって実感できてしまって、いろいろと怖くなってしまった。誹謗中傷を証明するために、自分を中傷している投稿をもう一度見に行ってスクショとって、それをいちいち見せながら説明しないといけないのもつらかった。何度も何度も申し入れ文書や訴状でも繰り返されると、もうこんなしんどい思いをしたくないと諦めてしまう人の気持ちが本当によくわかる。仕事相手でも、匿名だと思ってこんなことするんだと人が怖くなって、信用できなくなってしまったのもあるし、お金のためなら他人の創作物を搾取して、しれっと弁護士たててウソの主張をしてくるんだと思うと、お金さえも怖くなった。あとは、女でいることが怖くなった。私が中年のおじさんだったらたぶんこんな扱いは受けてない。私が会社に所属してたら……、たとえば結婚して会社の代表がダンナだったら、ここまでひどいことはされていないんじゃないかと思うと、それも怖くなった」
怖い、怖いとNIMAさんは繰り返す。しかしその大半の恐怖は、女性であれば何度も感じたことのある、静緒にもなじみのある感覚だ。
「幸いなことに、私には今まとまったお金がある。ここで私が折れたら、ほかのだれかがまた搾取されると思うと踏ん張らなきゃと思う。でも怖いし、しんどいの」
「私に出来ることはありますか?」
「あのね、私をなぐさめてほしいの。モノでいいから」
NIMAさんの顔は真剣だった。
「モノでしか埋められないしんどさってあると思う。だから素敵なものがあれば、すぐに紹介してほしい。服でも宝石でもなんでもいい。私は親もいないし、今回の裁判のことも友達にはほとんど言ってない。みんなに話したところで重すぎるから、反応にも困るだろうしね。だからなんとか一人で切り抜けるしかない。自分の機嫌をとるリソースが残ってないから、モノで代用したい。絵を描く以外の楽しい趣味がほしい」
彼女の指には、あのブルーダイヤのリングが嵌められていた。夜の一等星を閉じ込めたようなきらめきを放ちながら。多くの味方もなく、たった一人で世の女が受けるしうちに立ち向かおうとしている。
「たぶんそうおっしゃると思って、実はもってきたものがあるんです」
静緒は室内に戻ると、持参したジュエリー用のアタッシュケースから、ヴァンクリーフ&アーペルのネックレスペンダントとブレスレットをNIMAさんに見せた。
「NIMAさんは蠍座ですよね。こちらのゾディアック コレクションはメゾンの伝統を再解釈して生まれたもので十二星座あります。欧米でも西洋占星術を気にする方は富裕層に限らず多いんです。ですので、お守り代わりに普段使いできるものを選びました」
蠍座のロングネックレスは、NIMAさんの好きなブルー系の石であるターコイズに地金はローズゴールド。ヴァンクリーフ&アーペルらしい詩的な上品さと、時代に左右されない伝統的な意匠が人気で、自分の星座を身につける人が多い。
「イエローゴールドのメダルのほうと、ロングネックレスを重ねてつけてもいいですし、流行関係なく使えます」
ブレスレットのほうは、ペルレ コレクションのシニアチュールと呼ばれるもの。こちらを静緒が選んだのにはわけがある。
「文字彫りサービスがございます。今回の記念に、お好きな文章や言葉を彫ってもらうのはどうでしょう」
「すごくいいね」
NIMAさんは手袋をすると、そうっとブレスレットとネックレスをもちあげ、自分の手首や胸元にあててみせた。
「ネックレスにも刻印できます。好きな言葉や、自分を守る言葉をいれてもらうのはいかがですか」
「うわ、強そう。それすごく強そう」
自分の身を守るジュエリーや装飾品がほしいと望む顧客は、実は多い。富裕層やオーナーなどは人を雇う立場にあることが多く、仕事上、やむを得ずに縁を切ったり距離を置いたり解雇したりして、いらぬ恨みをかってしまう。そういうどうしようもない負の感情から自分を守るために、縁起を担いだりパワーストーンのようなものに力を借りたいと思うのだろう。
そういう意味では、百合子・L・マークウェバーさんにとってのシャネルも似たような意味合いを持つ。彼女はいつも、女性が一人で自立して生きていくことが難しかった時代に、女性のためのパンツスーツを作り、コルセットから解放したといわれているガブリエル・シャネルの逸話を大事にしていて、ここぞというときには必ずシャネルを着用するのだという。
『シャネルは武器だから』
その話を以前、NIMAさんにもしたことがある。大桝町に家を購入し資産家の実家から逃亡を果たした投資家の鞘師さんにもしたことがある。いずれも強く共感して、シャネルの購入につながった。いまでは二人とも、かなり強火のシャネルファンである。
メゾンの歴史を知ることは、そのメゾンの品物を身につけることに、さらなるオプションをつけるようなものだと静緒は思う。ただただシャネルやエルメスが好きでバッグを買うのもよいが、なぜそのバッグが支持されているのか、なぜメゾンが生まれたのかを理解しメゾンの歴史を知るだけで、より自分が身につける意義を見いだせる。それは、気持ちの上でも一粒で二度おいしい。
「じゃあ、ブレスレットとネックレスに刻印してもらう文を考えてみる。三つとも買います」
顧客から、思った通りの反応を得られたこの瞬間のなんともいえない充実感こそ、販売業の醍醐味であるといえる。自分が顧客というメゾンと歴史を理解し、解釈し、その先を読むことは、だれよりも相手のことを思っているということでもあるのだ。その気持ちの強さが通じた瞬間のきらめきのような心地よさは、さまざまな仕事の中でも直接相対する接客業が一番実感をえられるのではないだろうか。
「うれしいな。ヴァンクリのジュエリーって、ひとつぐらいもっておきたかったんだ」
メダルのほうがチェーンも用意して五十万、ロングネックレスが二百八十万で、ブレスレットと合わせると全部で約四百二十万円のお買い上げになった。これから店に戻り手続きをして、後日刻印の発注を済ませることになる。
伝票にサインをもらい、持参したクレジットカード用の決済端末機にタッチして会計を終わらせた。少し前までは何枚もの伝票を総務に提出していたのがうそのようだ。
「そう言えば、百貨店さんて、頼めば家も車も探してくれるって言ってたよね」
もう帰りがけのふいうちのような問いに思わず顔がこわばってしまった。
「芦屋に来たのは、グランドマリンクラブホテルの会員だったからでたまたまだけど、永住してもいいかなと思い始めたんだよね。静かだし、温泉も海もあるし」
「でしたら、ご予算とご希望を送ってください。探してみます」
「あっ、べつに急いでないから、鮫島さんの時間のあるときでいいからね」
ふんわりと牽制しつつも、NIMAさんは、裁判のあれこれが片付いて勝利したら、レディ アーペルのプラネタリウムウォッチを買うつもりだからと静緒にはっぱをかけた。このあたりはさすがというか、成功者らしいバランスのよさを感じる。ちなみにプラネタリウムのお値段は、約三千五百万円からである。
(ダイヤもシャネルも買って、ヴァンクリも買う。これから家も買って、三千五百万の時計も買って……。なにか目的を決めないと、NIMAさんには抗いつづけるための理由がない)
人間の大半は、金銭を稼ぐために働き、日々生活している。静緒をはじめとして生きていることがほぼ働くのと同じ人がほとんどだ。けれど、外商部のお客様や桝家は、働くことに金銭的な必要性はない。お金という観点で推し量るなら、NIMAさんはいやな思いをし続けてまで、制作会社と大変な裁判をすることはないのだ。けれど彼女は立ち上がり、NOと声をあげた。
だれも進んだことのない暗闇の中で一人戦い続けるためにも、いまNIMAさんにはきらめくゴールが必要なのだ。
***
『生きるために働く理由が必要って、アラフォーには身にしみる話よ』
久しぶりに東京にいる桜目かなみと電話で話した。向こうは二子目を抱っこしながらスクワット、こっちはカポエイラのキックバッグにパンチを打ち込みながらのフィットネスホットラインである。
『会社の組織改編はあるし、部下は増えるし、目の前にやることは山積みなんだけど、ふっと我に返ったりするわけ。あと二十年とかで定年だけど、私の人生、これでいいんだっけ?って』
久しぶりに切れ味のいい桜目かなみの口調を浴びて、思わず笑ってしまった。子どもを産んで育休終わった瞬間に二人目を妊娠しても、富久丸百貨店史上最高に堂々と産休を要求したといわれている彼女らしさがあふれている。
当初、人事にも総務にも、彼女が二人目を妊娠したことを告げたことによって非難めいた空気はあったようだが、
『わかりました。では私の人事や処遇はどのようになってもかまいません。ただ、とても残念ですのでその旨、SNSに書きますけど。あなたたちが今私におっしゃった、同僚に迷惑、空気を読め、ほかにも産みたい人間はいる、などなどの発言がマタハラにはならず適正だと思われるのなら、勤務先を明かしていない私のプライベートアカウントでなにを言おうがまったく問題ないですよね?』
彼女のフォロワーは千人程度で、おもにお気に入りのコスメや日本未輸入の海外ブランドなどを紹介しているこぢんまりしたものだが、彼女のいつもの〝触るモノみな傷つけた〟ナイフを振り回す不良少年を思わせる思い切りの良さで投稿すれば、おそらくバズってしまうことは明白だった。
『それがどういうふうに受け取られるか考えもせずに、部下にマタハラしていることがなにも問題ないとお考えだということがよくわかりました。まずは英語圏に向けて愚痴ってみます』
いくら匿名とはいえ、百貨店業界などと区切って発言すれば古い体質が浮き彫りになるだろう。株主総会を目の前にそのような発言の元になったとわかれば、彼女だけではなく上司も非難の的になる。SNSという武器の使用方法に疎く、しかしその威力だけは耳にしている中年以上の管理職が、桜目かなみに切っ先を突きつけられてどんな顔をしたのか、想像するのも容易すぎた。
『上流階級 富久丸百貨店外商部 Ⅳ』
高殿 円