『上流階級 富久丸百貨店外商部 Ⅳ』冒頭ためし読み!
ベストセラーシリーズ最新刊を、
ためし読み!
メーカーの歴史や特許などのトリビアもさらっと話すことによって、実はこのブランドは靴だけではなくバッグや衣料品などにも展開していることを知る客も多いのだろう。ならばついでだし見てみようという気にもなる。荷物を送る段ボール箱に空いているスペースがあることを告げられれば、ついついほかの買い物までしたくなってしまうし、地下で北海道スイーツフェアをやっていると言われれば、せっかくだから買って帰ろうと思うものだろう。テナントで入っている店員がほかの店をおすすめすることはないが、富久丸のスタッフならばそれができる。まさに神ハブ。あらゆるフロアにつながる靴、婦人雑貨という強みを生かした、百貨店の店員ならではの接客だ。
(なのに、彼女が努力してつなぎとめたお客さんは、外商にあがってくる。これでいいわけがない)
先日静緒が目撃した、靴を四足お買い上げいただいたお客様の情報が、婦人雑貨のサブマネから上に上がってきていた。カードの部署から年間のお買い上げ情報のチェックも済んで、ぜひ外商のほうで声をかけてみてほしいという。香野と大泉のどちらに割り振ろうか考え、ため息をついてしまった。
店として、会社としてはこのやり方で間違いないのだろう。しかし、倉地凜にしてみれば、自分の手柄をすべて外商がかっさらっていくことに徒労感を覚えないだろうか。なにかしら彼女の手腕を会社として評価していかなくては、いずれ彼女は富久丸に見切りをつけ、もっと自分を評価してくれる場所へキャリアアップを考えるに違いない。
(昔はどんな職場にも三年と言われた。でもいまは転職にネガティブなイメージはない。むしろ万年人手不足の販売職ならば一年とちょっといれば、待遇やポジションアップを目指して次を探すのも可能だ。義理や人情で縛り付けられるような時代じゃないのだから)
とはいえ、本部の人間でもない静緒に人事に口を出す権限はない。できることといえば、氷見塚に、あの子はできる子なので逃がしたらだめですよ、と口添えするくらいである。
カードの部署から、先日お申込みいただいた八太諒多氏の外商口座新設にOKが下りていた。さっそくご本人に電話をかけると、すぐに話したいことがあるので会えないかという。資産家のお嬢さんとの結婚式まわりについての話だろう。
結婚となると、婚約指輪から式場の手配まで、動く金額のケタが違ってくる。結婚のお世話をしたカップルからはその後も出産などのお祝い事、会社のこまごまとした用事など、百貨店の出番は多い。昔ほどではないとはいえ、ある程度の規模にまで成長すると、IPO(新規株式公開)を意識してかパーティなどを法人外商にまかせる会社はIT系を中心に多々ある。やはり、会社に対する信頼を得ようとすると、古くからのしきたりを通らざるを得ないということだろう。
個人投資家や、NIMAさんのようにSNSだけで何億も稼ぐイラストレーターとの仕事が増えてきた静緒だったが、八太氏の職業はさらにその最先端を行くものだった。
「アート投資家です。制作と売買をメインに扱う会社もいくつかもっていて、主にデジタルアートを中心に展開しています」
いわゆる非代替性トークン(NFT)を利用したデジタルアートは、ビットコインなどの仮想通貨の代わりに投機用資産として近年熱い視線が注がれている市場だ。八太さんは比較的早い段階からこのNFTアートに投資しており、いまでは初期に投資したぶんが莫大な資産となって、NFTアートの成功者といえば彼、と言われるまでになっている。三十七歳で資産は数十億、すでにその大部分を富裕層向けの資産管理会社に預け、自らは新たにビジネスを立ち上げている現代の成功者だ。
「NFTはビットコインと同じで、ただの目新しい新規投機先にすぎません。だからいずれ価値は落ちる。僕の場合は運よく初期のころにひと財産つくれたので、さっさと売却して、過熱してきたころには第一人者みたいな顔をしていられたのが大きいですね」
すでに八太さんはNFTアートの次を狙って仕込みをすすめているという。
「仮想やデジタルは一過性のブームですから、かならず揺り戻しがあります。デジタルバブルがはじけ、悪いニュースが重なるにつれて、人は今度はリアルを求め始める。あるいは、担保を求め始める。なので、次にくるのはリアルが紐づいたデジタルだと僕は読んでいますね」
起業家はさまざまな分野に種まきをしているもので、八太さんもまた、地方の国立大学の近くの倉庫などをおしゃれにリノベーションして、国立大に通う学生のたまりばとしてカフェなどを経営する事業に力をいれている。八太さんがいうには、地方の国立大には、地力のある頭の良い若者が大勢いて、起業のチャンスを狙っている。彼らにはアイデアと頭の良さがあるが、金がない。そこで、自分のような投資家が実際に話を聞いて、メンターとして彼らのスタートアップにつきあい、場所と時間と資金を提供する。婚約者である瑛子さんとは、同じシード投資家仲間の紹介で、いわゆる〝港区の〟パーティで出会ったという。
「まあ、若いころの僕がそうだったんですけど、無理しながら港区アドレスに住んでる同業者が多いんですよね。だから、〝そういう〟機会も多くて」
起業家や投資家にとって、情報とは人と会って得られるものだ。だから有益な人と会うためには多少の無理をしてでもアドレスを動かし、生活スタイルも変える。特に東京は野心をもつ若手の実業家たちがしのぎを削る戦場でもある。まず、港区の六本木や麻布に住めるかどうかでふるいにかけられ、それを維持できるのかでもふるいにかけられる。資産家たちのパーティは気まぐれで、すぐに呼べる人間だけを呼ぶ傾向にある。つまり、彼らの住む近くにいて、声をかければすぐ駆け付けられる相手しか呼ばないのだ。だから、彼らは多少無理をしてでも港区に住み続ける。
そのありがたい恩恵のひとつが、いわゆる婿さがしのために資産家の親が開くパーティだ。
「彼女の親は外務省の官僚で、それなりに力のある人です。退官も近いですが、そこそこのポジションで終わるのではないかと言われている。三年位前からかな。奥様にせっつかれて、まだ独身の一人娘のために勉強会を開くようになりました。まあ、なんとかを学ぶ会とか、意見交換のための交流会などの半分はこういったお見合いのことも多いんです。僕はそういう場があることは噂で知っていましたが、自分には縁のないことだと思っていました」
日本の伝統文化が海外にどう受け入れられているのか意見交換をする会があり、八太さんは知り合いの起業家に誘われてふらりと参加した。どんな小難しいことを勉強しているのか、自分は場違いではないかとひやひやしたが、蓋をあけてみれば一人の女性を大勢の独身男性が囲んで、女性にというよりはその親に自分をアピールする会だった。その時の様子は、さながらスタートアップにおけるデモデーのようだったと八太さんは言った。
「彼女は……、瑛子さんというのですが、今まで何度か結婚を前提におつきあいをしていた男性がいたそうです。でも、最終的には親が反対してご破算になってしまう。それで、もういっそ親の選んだ人から選べば楽に進展するのでは、と思っていた、と言っていました」
瑛子さんの親、つまり外務官僚夫妻が選んだ独身男性はそうそうたるメンツだった。国立大学の准教授、有名企業や国立研究所の研究員、親と同じ畑の若手官僚、医師、弁護士……、いずれも瑛子さんではなく、瑛子さんの親である外務官僚夫妻の後ろ盾を得たいと思っている若き野心家たちだ。昔から親の背中を見てきた瑛子さんは、ビジネス政治のやりとりや世界に慣れきっていたため、そんな彼らを見てもとくになにも思わなかった。自分も四十直前になるまで実家暮らしで、コネを総動員して得た仕事にしがみつき、なにかしたいことがあるわけでもないままこの歳まで来てしまった。自立する気もないままずるずると甘い汁を吸っている自覚もある。親に対する罪悪感もある。せめて結婚くらいは親の言うとおりにして、孫の顔でも見せてあげたい。頭がいいわけでもない、とりたてて取り柄もない自分にできることはそれくらいしかない、と思い詰めていたらしい。
八太さんはといえば、この東京會舘にはローストビーフを食べに来ただけ。まるでかぐや姫と求婚者のようだなあと遠巻きに眺めているだけだった。その八太さんが、瑛子さんと話す機会を得たのは、お互いにお手洗いにいくタイミングがたまたま同じだったから。
『大変そうですね』
と、八太さんは思わず声をかけてしまったそうだ。瑛子さんが作り笑いをしていることは遠目に見てもよくわかった。あの中から親の気に入るだれかを選んで結婚するのか、官僚の娘はたいへんだな、と感心半分同情半分のような不思議な感情がわいたのだという。
そんな自分の状況を正確に把握した上で、他人事のように突き放した言葉をかけられたことが、瑛子さんには逆に印象に残った。八太さんをひきとめて名刺を出させ、後日自分から会社のメールアドレスに連絡した。
メールを受け取ったとき、八太さんは瑛子さんのことなどすっかり忘れていたので、一瞬誰からかわからなかったらしい。ああ、あの東京會舘のかぐや姫か、と三十分くらい経ってから思い出した。
偶然職場が近いことがわかり、あの日はろくにローストビーフが食べられなかったと彼女が言うので、改めて二人して東京會舘に食べにいった。あの洋館の雰囲気が好きだと彼が言うと、彼女は学士会館のフレンチもいいとおすすめしてくる。自然と二回目のデートが決まり、なんだかお互いに会う理由も目的もよくわからないまま、おいしいものを食べに行くだけの日々が過ぎた。あるとき、仕事で高知大学の近くにある自分が経営するワーケーション施設に出張した。お嬢様へのお土産がよくわからず、とりあえず四万十川のノリの佃煮を買っていったら、その日のうちに白米の上に佃煮を山もりのせた写真を送ってきて、初めて彼女への興味がわいた。
「それまで違う世界のお嬢様としか思ってなかったんですよ。都内のあらゆる高級レストランや寿司屋や料亭に顔を覚えられているような人だから。どこか記号的に見てたんですよね。僕は奈良の田舎育ちだし、高専しか出て無くて、コネクションもない。親は地元企業に勤めるふつうのサラリーマンで、母親はパートの学童指導員。姉は教師です。親戚だっていろいろいる。彼女や彼女の親が私らと縁続きになっていいことなんてひとつもない。むしろマイナスです」
それでも、瑛子さんがあの数居る求婚者の中から選んだのは八太さんだった。交際に進むのに積極的だったのは彼女のほうで、八太さんが出張で地方へいくと、必ず休みをとって自ら会いに来た。八太さんの仕事である地元の企業や農家、JAなどの挨拶回りにもついてまわり、疲れた彼の代わりに運転もした。いったいなにが都会育ちのお嬢様の心を動かしたのかわからないが、とにかく瑛子さんは、八太さんに気に入られようと必死に努力した。その様子をみて、八太さんもまた健気だなとキュンときたという。
「だって親が選んだ男の中から無難なだれかを選ぶことだってできたわけですよ。彼女の周りはそんなひとたちばっかりなんですから。なのに、わざわざ自分みたいな典型的な成り上がりの、どこの馬の骨ともわからない低学歴の田舎者を選ぶとか、チャレンジャーだなとしか思えない。何度瑛子さんに聞いても、僕を選んだ理由はわからないとしか言わないんです。ただ、ピンときたと。血統書付きばかりの中に、毛色の変わった雑種がまぎれこんだだけなんですが、彼女はそれが、珍しく、力強く、ものすごい吸引力を感じたそうです」
お互いに惹かれ合ってからは、歳の問題もあってすぐに結婚の話になった。八太さんのほうも三年つきあった彼女と、彼女のほうが田舎暮らしはしたくないという理由で別れたばかりだったから、どんな僻地にも喜んでついてきてくれる瑛子さんの存在は伴侶としてうってつけだと感じた。
「おそらく、瑛子は最初にお母さんに僕のことを話したんでしょう。すぐに僕のプライベートは調べ上げられたと思います。いまの職業や年収、経営している会社の年商があの方たちの及第点だったのかはわかりませんが、彼女は大丈夫だと言っていた。今まで両親ともに父親と同じ東大法学部閥にこだわっていたが、独身男は尽きた。次に慶応や一橋などにも門戸を広げたが、それも枯渇した。もう両親の望む学歴、育ち、バックヤード、コネクション、年収をもつ独身の男は東京には残っていない。自分のような高専卒も、東京のFランも彼らにとっては同じこと、大事なのは将来性だと」
エライ言われようだな、と静緒は思ったが、八太さんが冷静にそう感じたのならそうなのだろう。華族制度が崩壊したあとも、階級は確実に存在する。本物の上流の人々は、一生下流の人間に会わず、会話せず、目も合わせることもないまま人生を終えるのだ。
「瑛子は、どこに住んでもいいし、どんな暮らしをしてもいいから、結婚式だけは親の面子を立ててほしいと言いました。正直、彼女が望む結婚式のランクが僕にはよくわからない。幸い小銭だけは持っていて、ハリー・ウィンストンの婚約指輪を買うことはできるけれど、格式とか言われるとちょっとね。全然想像もつかないわけです」
あまり上客でなくて申し訳ないですが、と八太さんは何度も繰り返した。
東京のお客さんなのに、なぜウチなのだろうとは思っていたが、話を聞いて腑に落ちた。おそらく瑛子さんの家には東京の名だたる外商が入っており、瑛子さんとしては比べられるのを恐れて、関西の百貨店を選んだに違いなかった。あとは、八太さんの仕事が西日本を中心に展開されていることと、八太さんの実家が奈良という点もあるのだろう。
(成功者にもいろいろ苦労があるものだなあ)
とは思ったが、瑛子さんと結婚すれば八太さんには強力な後ろ盾がつく。融資を受けるのも容易になるだろうし、お互いの利害も一致する。そのために、こう言ってはなんだが八太さんの身分の底上げを、という意味での外商の出番なのだ。
その後、八太さんから無事、瑛子さんのご両親に挨拶にいく段取りがついたとの報告を受けた。「結納と結婚式は富久丸の外商のしきりで」と言うことで得られる社会的信用は確実にある。ECにない百貨店の強みはまさにここに凝縮されているともいえよう。
時任さんに八太さんのことを報告して、彼女のほうからハリー・ウィンストンに連絡を入れてもらった。今回のことは彼女の手柄でもあるので、きちんと紹介ルートを記録しておく必要がある。たとえ時任さんの直接の売り上げにはならなくても、ハリー・ウィンストンの店長に恩を売っておくことはプラスにしかならない。
ハイブランドの店員は将軍だ。お客になにを売るかは彼らの胸三寸である。そして、彼らは最初からハイブランドに就職しているわけではない。名も無い販売店から実力を積み、容姿と外国語を磨き結果を出して、わらしべ長者のようにのし上がってきた人間も多い。そういうタイプの販売員同士は、キャリアアップの過程で必ず知り合っている。お互いに情報を交換し、お互いの前歴も、なんならどの芸能人とつきあってきたのかすら把握している。静緒が最初からすんなりハイブランドの販売員のコネクションを利用できたのは、地下でローベルジュの催事に立っていたころからのつきあいがあったからだ。彼女らとて、地下で買い物ぐらいはする。ローベルジュが元町店の催事に出すたび、甘い物は絶っているけれどここのクリームパイはご褒美だからと買っていってくれた新任スタッフが、いまでは堂島のエルメスでチーフをしている。
だから、香野が自分の顧客に限定ものを売ってもらいたければ、地道にコネクションを広げるために活動すべきなのだ。地下の催事で積極的に買い物をして、外部販売員や契約社員ともかかわりをもち、根気よく種をまく。だが香野の意欲は己の中国の上顧客だけに向いていてやや視野が狭いように感じられる。
静緒は外商に来る前に、地方の小さなパティスリーが百貨店の催事に入れるまで、ひたすら製造と現場に立った。富久丸に契約社員として入ってからは、バイヤーとフロア企画として様々な売り場に出入りした。正直外商の扱うハイブランド以外のほうに自分の強みがあったぶん、外商一年目はだいぶ苦労したが、葉鳥という大きな存在によって乗り越えることができたように思う。
自分は、葉鳥のように香野や大泉を指導できるだろうか。葉鳥のやり方は葉鳥にしかできない。自分のやり方で導けばよいとは思うが、自分のやり方が彼女たちにマッチしているかどうかはまだわからない。
なにより、香野は〝課外活動〟を極端に嫌う。休日は必ず社用携帯の電源を切っていて、オンとオフの区別をはっきりとしている。プライベートに重きをおくのは現代の若い人の生き方において顕著で、それは二十四時間戦えますかなどという風潮がもてはやされた静緒の若い頃よりはいい傾向にあると思う。しかし、店と違って外商の仕事に閉店時間はない。それは彼女も重々承知で配属されてきたのだろうと思ったが、話をきくと心の底から納得しているわけではないようだった。
「今はそうでも、私たちの世代が積極的に意見して、変えていけばいいんですよね」
週明けの報告会のあと、少し時間をもらって彼女と話す機会を増やすことにした。香野は歯切れの良い口調できっぱりと、
「働き方改革が進んで、ブラックだといわれていた販売業もだいぶ改善されてきたとは思います。でも、外商はまだ古いと感じます。なにかあったときにすぐ動く仕事は、プライベートセクレタリーがやればいい。仕事でいい結果を出すためには、プライベートの充実は必須ではないでしょうか」
「でも、いまいい結果がだせていなくて、苦労しているよね」
シンガポールの上顧客の期待に応えられていないことを暗に示唆すると、やや反射的に否定の言葉が返ってきた。
「そういう時間外労働って、一度すると〝するもの〟と思われるのがいやなんです。自分の時間をどんどん犠牲にして、仕事にぜんぶ費やして干からびた二十代、三十代を送りたくないんです」
あくまで勤務外の仕事はしないと線引きしている香野に、課外活動の重要さをわかってもらうのは至難の業だった。
(干からびた三十代……)
香野の考え方からすると、静緒のような生き方はとうてい理解不能なのだろう。自分でも仕事しかない人間だと思うぐらいだから、他人から見れば相当、プライベートを犠牲にして生きてきた、かわいそうな仕事人間に見えるはずだ。
(まあね。そうですよね。最近はなんだか生理も不調だし、更年期が近づいて来てるってひしひしと感じますよ……)
彼女のようなZ世代に、自分たちのようにプライベートを犠牲にして仕事に尽くして技術を身につけてきた人間のやり方は受け入れられない。だが、静緒は実際そのやり方しか知らない。これからは、自分に合うやり方だけではなく、自分が投げられないボールの投げ方まで理解し、受け入れ、個人にあった指導をしていく必要がある。
これが、思った以上に最近の静緒には負担になっていた。
「自分のやり方を教えるんじゃなく、自分には性に合わないやり方や考え方も理解して、把握して指導するのが、こんなにしんどいとは思わなかった」
気がつくと、桝家のプライベートゾーンである一階のソファで、冬眠に失敗して車道で乾いたは虫類のようにひっくりかえっていた。
「自分の仕事に集中したい……。自分の仕事だったらどれだけ増えてもいいよ……。出世とかしなくてもいい。自分のことだけしていたい」
「それが組織のめんどくさいとこですよねー」
同じ組織に属していながら他人事のように桝家は言う。どんな心境の変化か、最近はルーフバルコニーでプチトマトを育てていて、ホームセンターで購入した土を新しい大きなプランターに入れる作業をしていた。お願いだからそういう作業をするときは、グッチのスウェットは脱いでワークマンの作業着に着替えてほしい。
「組織にいる恩恵を受けている以上、組織の維持に労働力と技術を還元していかなければならない。あ、そんなめんどくさいこと考えないで適当にやってたほうが気が楽だと思いますけど。部下の教育も」
「桝家だって、そんなこと言ってられるのいまのうちだけだよ。ちょっと肩書きついたらこうなるんだよ」
「ならないですよ。俺出世しませんもん」
両手にスコップと腐葉土のバッグを抱えた姿で、彼は静緒を鼻で笑ってみせた。
「自分の健康が大事ですもん。健康に四十になって、なるべくストレスフリーで五十になりたいんで。男で静緒さんみたいな働き方してるやつはみんな四十になれずに心か身体が死ぬっていいますから」
「…………」
たしかに、最近結婚出産育児の話題のかわりに、知り合いが闘病中だとか、病気で休職だとかいう話がちらほら耳に入ってくるようになった。癌のようなおっかない病気もあるが、鬱も多い。
「自分が自分を大事にしないでどうするんですか。もっと楽にふわっと仕事しましょうよ。いつまで富久丸にいるかわからない若手なんて勝手にやらせとけばいいんです」
「いや、しかし、その指導も仕事で……」
「香野なんて、絶対そのうち金持ちの中国人と結婚してさっさと独立しますよ。大方セカンドビジネスで起業でもしてるんじゃないですか」
「うち、副業禁止じゃない」
「別名義でやってるぶんなんて会社もチェックしようがないでしょ」
たしかに、桝家も親からいくらか譲られたポジションや名義からの収入があるだろう。手っ取り早いところで不動産や証券などは副業のウチに入らない。
「大泉はわりとあれで長続きしそうですけど、そのうち見合いって言われそうな実家らしーですね。みんな勝手やってるのは、鬱になりたくないから。できるだけ我慢する生活をしないってのが一番効く健康法なんで、部下が勝手やるぶんなんて個人の健康法なんだなって思ってスルーでいいんですよ」
そう言って、アフターに酒も飲まずに中庭のルーフバルコニーに消えていった。静緒は今までに無く、桝家の背中をまぶしく感じた。空いた安ワインの瓶ごしに見送る彼の後ろ姿が心なしか以前より大人っぽい。ああ、けれどルーフバルコニーでいくら大量のプチトマトを育てても、外から虫がこない造りでは、いくら丁寧に世話をしても肝心の受粉はしにくいんじゃないかと言いそびれた。
桝家は有意義(?)なプライベートライフを過ごしているというのに、あいかわらず静緒は土日なく社用スマホを手放せないでいる。佐村さんの中学受験につきあって以来、ありがたいことに静緒のことが口コミで広まったのか、うちの子の受験の相談に乗って欲しいという同様の依頼をいただいている。あくまで静緒は外商員で中学受験のプロではないが、話を聞いているうちに、どうやら本当に相談相手を欲しているのは偏差値50近辺の中学を目指している子どもの親であるようだった。ようするに、偏差値60以上の中学を目指せる学力がある子どもなら、塾のほうもある程度はマメに面倒をみてくれるが、塾のステータスアップにもならないレベルの偏差値の子どもは、授業費を払うだけ。親のほうも塾のそんな態度に失望していて、けれど同じ中学受験ママたちは東大寺だ灘だ甲陽だを目指しているので話が合わず、引け目もある。
本当に必要とされるのは、偏差値50の子どもの親のケアだが、だれもそこには商機を見いだしていない。そこへ、偶然静緒が慶太くんの受験のケアを体当たりでしたことが、結果的に佐村さんの絶大な信頼を勝ち得ることになり、同様の悩みを持つアッパークラスのママたちから突然の外商入会指名を相次いで受ける、ということになったのだった。
口コミというなら、佐村さんより鶴さんの影響のほうがもっと大きい。おかげで今まで電鉄系の外商しか使っていなかった建設関係のお客さんたちから、急に家にきてほしいという依頼が入ったり、外商サロンで会いたいと電話が来たりする。みな、ロレックスを買う、絵画を買うと依頼はさまざまだが、フタを開けてみると娘の結婚が……、孫の受験が……と、買い物とは関係の無いことで静緒の力を借りたがった。
思えば奇妙な話である。静緒の時間を買うために、店の売り物を買うというのは。けれど、こういうやりとり、お客さんとの関係性はECでは成立しようがない。ECをライバルとして狙いを定めている以上、百貨店はECにはできないラインを重点的に強化していくしか生き残る道はないと言っていい。
だとすれば、お客様とのこういうやりとりも大事な仕事のうちだ。佐村さんや鶴さんからのご紹介をありがたく受け、ついでに休みの日には中学受験関連のセミナーや講習にも足を運んで、関西圏や全寮制を含めた地方の私立中学について情報を集める。そうこうしているうちに、投資家の鞘師さんから車を買いたいという依頼のLINEが来る。藤城雪子さんからは、母の一周忌に、同様のエステートセールを開けないかと相談メール。友人の金宮寺良悟からは、なぜか南宮町の中古テラスハウスの案内だ。最近の彼は、「どうせお母さんと同居するならニコイチを買って隣を貸せばいいじゃない」と熱心に勧めてくる。彼が言うには、テラスハウスは売却が難しく、壁を共有しているせいでリフォームも建て直しもやっかいだが、二軒ともまとめて買ってしまえば価値は倍増する。隣を賃貸で貸してローンを返す不動産投資は、マンションと違って己がオーナーなので、管理費や修繕費の支払いコストがなく、なにかあったときに手をいれやすい。
『もしくは、山の手にある定期借地権のマンションがおすすめよ。あそこは借地期間があと二十年を切って価値が下がってきてるんだけど、じつは内部の管理組合では、更に五十年借地期間を延ばそうって話が具体的にまとまってるの。上物はオーナーの身内の竹中工務店が建ててる立派なものだし掘り込み式の地下のガレージは、立体駐車場と違ってメンテナンスいらずだし。外車やセカンドカーをおいておくのに台風や天候不良の日にも安心だって評判がいいのよ』
プロの不動産屋らしく、昔の間取りなので一部屋が四十平米と一人で暮らすのも狭く、今の若い人には人気がないが、もともと地権者が好きなように間取りを決めたため、メゾネットや百平米のペントハウスなども入っており、二部屋隣同士で買って壁をぶち抜くことも可能らしい。実際、最近では団地を同様のやり方で間取りを広く変え、売り出すのが主流になってきており、若い人にも好評だということだった。
『借地物件なら二部屋買っても二千万。どうせここは借地も延びるからあと二十年+五十年で死ぬまで居られるわよ』
「へえー、そんなこと考えもしなかったな……。すごいな」
不動産サイトのサーチではひっかかってこない情報の数々に、感心しながらローソンの低糖質パンにかぶりついた。
気がつけば、食事のとりかた、睡眠の長さが若い頃とは変わってきている。昔は質より量、場所より値段の安さが重要だったのが、最近では食事をする場所のロケーションや内装、雰囲気重視になったように思う。せっかく会うんだから、せっかく外出するんだからちょっと高くても気持ちよく居られるようにしようという意識が強くなったのは、時間に対する価値観が変化したからだろうか。
『上流階級 富久丸百貨店外商部 Ⅳ』
高殿 円