椹野道流の英国つれづれ 第41回
◆銀行口座を巡る戦い #8
先日と同じ「ナット・ウエスト」ことナショナル・ウエストミンスター銀行の支店に足を踏み入れると、今日も店内はそこそこの混雑ぶり。
この前の担当者の姿を探してみましたが、見当たりません。
ホリデー中だというのは、本当かも。信じられない話ではありますが。
入り口近くで突っ立ったまま、無言でキョロキョロしているアジア人の小娘は、銀行的には歓迎したくない「不審物」だったに違いありません。
すぐさま、今回はやや年配の行員が足早に近づいてきました。
「何かお手伝いできることはありますでしょうか?」
この場合の〝May I help you?〟 は、「いらっしゃいませ」より、そのまんま翻訳した意味のほうが適切な印象でした。
引っ繰り返せば、「用がないならとっとと出て行きなさい、場違いな娘よ」という感じです。
でも、ここで怖じ気づいてはいられません。
相変わらず、ボブの教えを完璧に実行することはできないけれど。
「日本語で言いたいことを考えてから英訳するのではなく、いきなり英語で考えて喋る」チャレンジは毎日続けていても、こういうきっちりやり遂げなければいけないことについては、まだ度胸が足りなくて。
ええ、やりましたとも。
前夜に日本語で原稿を書き、英文に翻訳し、それを暗記しましたとも。
完璧主義者というより、ただの臆病者の所業です。
でも、そのおかげで、要点を掻い摘まみ、それなりにスムーズに伝えることができたので、相手の行員も、小さく頷きながら話を聞いてくれました。
私が口を閉じると、彼はスマートな笑顔で、私を隅っこの小さなテーブルの前に連れていき、「ここで待っていてください。調べて参ります」と、ガラス窓で仕切られた奥のオフィスに入っていきました。
パブの立ち飲み用のテーブルに似たそれに肘を置き、ソワソワしながら待っていた時間は、15分くらいだったでしょうか。
行員はやっぱりクリーンでスマートな笑顔で戻ってきて、こう言いました。
「確かに、お客様の口座開設申請を受理した記録がございました」
ホッ。受理はされてた!
ということは、カードと通帳の送り忘れ? だったら、言いにきてよかった。
軽く胸を撫で下ろしかけていた私の耳に届いた言葉は、しかし、信じられないものでした。
「ですが、担当者がただいまホリデーでございまして」
それは電話で聞いたけど!
ホリデー、それが何?
「戻り次第の手続き続行となります」
いや、口座開設って、担当者しかできへんような複雑怪奇な手続きが必要なん……?
そんな馬鹿な。
一応、改めて訊いてみよう。
「あの、いつ、お帰りですか?」
暗記していた文章以外は、動揺も手伝って、見事なカタコトです。
行員はさらりと答えてくれました。
「来月の4日以降でしたらおりますので、そのときに再びお越しください」
待って。無理。
そんなに待てない!
驚きと動揺と絶望がない交ぜになった私の顔を、ちょっと眉をひそめて「かわいそうに」みたいな顔をして、行員は手にした書類をとんとんと揃えながらこう言いました。
「お気の毒です。お力になれず申し訳ありません」
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。