椹野道流の英国つれづれ 第41回

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「わたしが承りましょう、お嬢さん」

誰?

ゴシゴシと、服の袖で涙を拭いてそちらを見ると、かなり年配の男性が立っていました。

彼は、私に応対していた行員に何か囁いてオフィスに戻らせると、手に持っていたティッシュペーパーの箱を私の前に置きました。

「落ち着いて。大丈夫ですよ」

完璧な笑顔。穏やかな声と物腰。他の行員より確実に仕立てのいいスーツ。間違いない。この銀行では、かなり偉い人です。

その証拠に、さっきの行員が、小走りで書類の束を持ってきました。

そして、私を忌々しそうにチラと見て去っていきます。

「少し待ってくださいね。そのあいだに、泣き止んでください」

さりげなくそう言って、素早く書類に目を通した男性は、「おやおや」と小さく首を振りました。

「こんなにお待たせしていたのですね。それはご不便だったでしょう。これは間違いなく、担当者がホリデーに出掛ける前に、きちんと片付けておく案件でした」

私は、パンパンになった瞼をこじ開け、キッと男性を睨みつけて頷きます。

「ほんとにそう! 銀行がそんなにいい加減だなんて、信じられない!」

うわー。こっちはこっちで信じられない。

感情が、するすると英語になって口から飛び出していきます。

「お恥ずかしい。先ほどの同僚の言葉は、お忘れください。お詫びします。わたしが今から、担当者にかわって手続きを致します。あともう少しだけ、お待ちいただけますか?」

「本当に?」

「ええ、勿論」

彼は力強く請け合って、オフィスに戻りました。

たちまち、部下らしき数人が駆け寄り、彼の手から書類を受け取ると、作業にかかります。

うわあ。本当に偉い人なんだ。支店長とか、そういう感じの。

ほんの15分ほどで、彼は私の前に、ピカピカの通帳とキャッシュカードを置きました。

「さあ、待ち焦がれた通帳とキャッシュカードですよ。使い方をお教えしたほうが?」

「お願いします!」

今ならばネットバンキングで簡単に行えることが、当時は万事アナログでした。

ようやく街角にたくさんATМができて、お金を下ろすのは簡単になった……そんな感じだったのです。

日本からの送金の手続き、そして書類を指し示しながら、かかる日数などを丁寧に教えてくれた彼は、私を出入り口まで見送って、こう言ってくれました。

「語学学校の方に、これまでの経緯を伺いました。たいへん苦労なさいましたね。当銀行に口座を開いてくださり、光栄に思います。実り多き日々を、ここブライトンで過ごしてください」

か ん ぺ き 。

日本の銀行がミスのお詫びにくれるポケットティッシュもラップフィルムもなかったけれど、そして彼の言葉はビジネストークの定型文なのでしょうけれど、それでも礼を尽くしてくれたことはわかります。

銀行口座を開けたことも勿論とても嬉しいけれど、私をきちんとひとりの人間として、敬意を持って遇してくれたことが何より嬉しくて、私は語学学校に向かって軽い足取りで歩き出しました。

きっと、これまでのことを説明してくれたのは、アレックスでしょう。

もう一度、今度は、本物の通帳を見せて、喜びを分かち合いたい。

そして、この国に来て、初めて言える気がするのです。

「パブで1杯奢らせて」と。

 

不思議なことに、「英語スラスラ」は、ただの瞬発力ではありませんでした。

この日から私は、日常会話の大部分において、日本語で考えることなく英語を喋れるようになったのです。

家の中で独り言を言うときですら、英語を使うことが増えました。

考えてみれば、中学と高校の英語の授業で、語彙力は十分にあったのです。

受験英語を学んだおかげで、文法もきっちり頭に入っています。

ですが、それらを自在に組み合わせて使うスキルが、私にはありませんでした。

銀行で初めて感情を爆発させた瞬間、心と英語を直接結びつける回路ができて、これまで学んだことをスムーズに使えるようになったのだと思います。

留学の意義は、こういうところにあるのかもなあ……と、今、しみじみと思い返しています。

ついでに、自分の感情を真っ直ぐに表現することも、この頃から少しずつできるようになった気がします。


「椹野道流の英国つれづれ」アーカイヴ

椹野道流(ふしの・みちる)

兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。

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◎編集者コラム◎ 『忠臣蔵の姫 阿久利』佐々木裕一