秋谷りんこ『こころのカルテ 潜入心理師・月野ゆん』

死にたい気持ちが目に見えたら。
私は13年間、精神科病棟で看護師として働いていました。
精神科にご入院される患者様はいろいろな症状をお持ちです。不安、不眠、幻覚、妄想……。なかでも一番厄介な症状が、死にたい気持ち、つまり「希死念慮」ではないかと思います。
自死で亡くなる方は、毎年2万人以上います。
自ら死を選ぶ人は、心が弱いと言われることがあります。
本当にそうでしょうか。
いいえ、違います。死にたい気持ちは本人の意志や心の強さとは関係なく、症状としてあらわれるものがほとんどです。つまり、「病気や障がいに死にたいと思わされている状態」といえます。
高血圧の人に「意志が弱いから血圧が下がらない」と言う人はいません。骨折した人に「強い気持ちで骨をくっつけなさい」と言いますか? 「死にたい気持ち」も、それと同じなのです。
私には、新人時代の忘れられない患者様がいます。
物静かな若い女性の方で、症状は落ち着いたと思われてご退院になりました。しかし、翌日に自ら死を選んだのです。
その一報に、私は目の前が暗くなりました。病棟での治療は何だったのだろう。私たちが行っていた看護には意味がなかったのか。精神疾患や希死念慮についての勉強はしたし、理解していたはずです。でも、実際に関わっていた方が自死してしまったことに、想像をこえた激しいショックを受けました。
自分の感情が整理できず、泣きながら何時間も先輩に話を聞いてもらったことをよく覚えています。
死にたい気持ちが目に見えたら。
そのとき、強く思いました。目に見えて、手で触ることができて、希死念慮だけを見つけて確実に治すことができたら……患者様はどんなに気持ちが楽になるでしょう。でも、現在の医学でそのようなことはできません。
本作は、人の記憶の中に直接潜入し、死にたい気持ちの解消につとめる架空の専門職「潜入心理師」が活躍します。この設定に、看護師時代から持ち続けた強い願いを込めました。
主人公の月野ゆんには、この仕事を志した深いわけがあります。月野の過去、そして現在の成長を見守っていただけると幸いです。
いつか医療がもっと進歩して、精神疾患のより良い治療法が見つかると信じています。
そして、今死にたい気持ちがある方へ。それはあなたのせいではなく、症状として思わされているだけです。必ず誰かに相談し、どうか自分を責めたりせず、穏やかな時間が過ごせますよう願っています。
秋谷りんこ(あきや・りんこ)
1980年生まれ。神奈川県出身。横浜市立大学看護短期大学部(現・医学部看護学科)卒業後、看護師として10年以上病棟勤務。2023年、「ナースの卯月に視えるもの」が note 主催の「創作大賞2023」で「別冊文藝春秋賞」を受賞し、翌年同作でデビューした。