連載第27回 「映像と小説のあいだ」 春日太一

小説を原作にした映画やテレビドラマが成功した場合、「原作/原作者の力」として語られることが多い。
もちろん、原作がゼロから作品世界を生み出したのだから、その力が大きいことには違いない。
ただ一方で、映画やテレビドラマを先に観てから原作を読んだ際に気づくことがある。劇中で大きなインパクトを与えたセリフ、物語展開、登場人物が原作には描かれていない──!
それらは実は、原作から脚色する際に脚本家たちが創作したものだった。
本連載では、そうした見落とされがちな「脚色における創作」に着目しながら、作品の魅力を掘り下げていく。
『時をかける少女』
(1983年/原作:筒井康隆/脚色:剣持亘(潤色:大林宣彦)/監督:大林宣彦/制作:角川春樹事務所)
「わたしも一緒にいきます!」
土曜日の放課後、芳山和子は掃除当番のために訪れた理科実験室で謎の臭いをかぎ、気を失う。しばらくして目覚めるが、それ以来、彼女は同じ日を何度も繰り返すようになる――。
筒井康隆の小説『時をかける少女』は映画、テレビドラマ、アニメなど、何度も映像化されてきた。今回はその中でも1983年の大林宣彦監督版について検証してみる。
大林版も、先に挙げた原作の設定は変わりない。ただ、原作では中学生だった和子が大林版では高校生に変更されている。この年齢の変更には、実は大きな意味があった。それは、恋愛感情のリアリティである。原作の和子は恋愛に無頓着であるのに対し、大林版の和子(原田知世)は同級生の深町一夫(高柳良一)にほのかな恋愛感情を抱いている。そして、物語はこの和子から深町への恋心を軸に進むことになる。そうなると、当時の感覚では中学生よりも高校生の方が、リアリティが出てくるのである。原作では終盤になって和子は深町から告白をされるのだが、和子は「なんておませなんでしょう」とリアクションしていることが示すように、まだまだそうした年頃ではない設定で描かれていた。
そのため、大林版が原作から脚色している箇所の大半は、原作にはなかった和子の深町への恋心を表現するためになされている。結果として割を食う役割となったのが、和子と同級生の吾朗(尾美としのり)だった。和子、深町、吾朗がいつも一緒に行動する仲良しである設定は変わらない。だが、その関係性は異なるものになっていた。
たとえば、和子の二人に対する呼び方だ。原作は「深町さん」「浅倉さん」と全く同等の扱い、二人とも仲の良いクラスメイトでしかない。が、大林版はそうではない。吾朗には「吾朗ちゃん」と幼馴染としての親しみを込めた呼び方なのに対し、深町は「深町さん」と呼んでおり、明らかに吾朗とは異なる感情を抱いているのが伝わる。
そして大林版の物語は、和子にとって深町が徐々に特別な存在になっていく過程が繊細に――吾朗の立場からすると残酷に――描かれていた。
大きなルート分岐となるのが、和子がこの不思議な状況を相談する場面だ。原作では、和子は深町に相談しようと彼の家に行くと、そこに吾朗もいた。そのため和子は二人に相談しており、以降は三人で話し合いながら事態に対応することになっている。
大林版では、和子はまず吾朗を訪ねた。ところが吾朗は家業の手伝いで忙しく、全く取り合ってくれない。その後で和子は深町を訪ね、深町は親身になって聞いてくれている。
「わかってくれる人がいるだけで――大丈夫」
異様な状況を信じてくれた深町に、和子は深い信頼を寄せるように。そして秘密を共有したことで、和子と深町の距離は近づいていく。一方、それは吾朗がこの件で蚊帳の外に置かれることになったということでもある。原作と映画で、和子にとって、つまり物語上での吾朗の位置づけは全く異なるのだ。
火事の場面は、その象徴といえる。町で地震があった後、吾朗の家が火事に遭う。心配した和子が駆けつけると、そこには深町もいた。吾朗が無事だったことに安心した二人は帰路につく。ここまでは、原作と変わらないが、そこからの展開が違っていた。、原作の二人はアッサリと別れたのに対し、大林版では長い時間をかけて、ロマンティックな雰囲気で語らっているのである。しかも、和子はこの帰路を、記憶を残したまま何度もループしているため、繰り返される度にその親密さは深まっていく。
終盤の展開も同様に、ラブストーリーとして脚色されている。原作では、和子・深町・吾朗の三人は担任の福島に相談する。福島は彼らの話を信じ、和子に起きている現象はテレポーテーション(瞬間移動)とタイムリープ(時間移動)だと解き明かす。そして、和子が事の発端となった日の理科実験室に戻り、誰の仕業であるのかを確認する必要があると主張。和子はふとしたキッカケで自らタイムリープする術を見出し、あの日の理科実験室へ向かった。つまり、福島が和子のタイムリープを導いている。
が、大林版はそうではない。和子は深町が何らかの事情を知っていると勘づき、深町の手でタイムリープすることになるのだ。福島はそこに全く介在していない。あくまで和子と深町二人だけの秘密として、この件は動いている。
理科実験室で和子と深町は対峙する。実は深町は未来人だった。未来の地球は植物が死滅しており、深町はラベンダーを採取するために過去の世界にやってきたのだった。そして、トラブルなく溶け込めるよう、彼と関わった全ての人間の記憶を改変していたのだ。彼が未来に去ると、その記憶はリセットされる。まさにこの日に、彼が未来に帰ることになっていた。和子は止めるものの、深町は去っていった。再会する日を誓って――。
このラストの展開は、原作も大林版も変わらない。だが、少女と少年のジュブナイルSF冒険小説としての色合いの濃い原作を大林版はラブストーリーとして脚色しているだけに、ここで流れる和子の感情は全く異なるものになっている。
そもそも、大林版の和子が理科実験室にタイムリープしたかった理由は、原作のように謎を解くためだけではない。「普通の女の子でいたい。普通の女の子として、深町くんとこうしていたい」と、この奇妙な状況から解放され、「普通」の状況で深町と向き合いたかったからだ。つまり、深町への想いが彼女を動かしたのだ。
原作では理科実験室で深町から聞かされることで和子は深町による記憶の改変を知るのだが、大林版ではその前から既に和子は真相に行き着いていた。それはその直前、和子が吾朗に「さよなら」と言っていることからもよくわかる。その記憶が改変されたものだとわかったとしても、そして「深町の優しさ」として刻まれていた記憶が実は吾朗との記憶だったと判明しても、それでも和子は吾朗ではなく深町を選んだということだ。
そして、去りゆく深町に投げかけたのが冒頭のセリフだ。だが、その言葉は深町を受け入れることはなく二人は別れ、和子の記憶から深町の存在は消えることになった。和子に恋愛感情が乗っかっている分、その記憶がなくなる重みは原作に比べて大きく、より切ない余韻をもたらすことになった。
【執筆者プロフィール】
春日太一(かすが・たいち)
1977年東京都生まれ。時代劇・映画史研究家。日本大学大学院博士後期課程修了。著書に『天才 勝進太郎』(文春新書)、『時代劇は死なず! 完全版 京都太秦の「職人」たち』(河出文庫)、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』(文春文庫)、『役者は一日にしてならず』『すべての道は役者に通ず』(小学館)、『時代劇入門』(角川新書)、『日本の戦争映画』(文春新書)、『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』(ミシマ社)ほか。最新刊として『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋)がある。この作品で第55回大宅壮一ノンフィクション大賞(2024年)を受賞。