「推してけ! 推してけ!」第53回 ◆『月とアマリリス』(町田そのこ・著)

評者=池上冬樹
(文芸評論家)
悲しいけれど温かいつぐないの物語
力強くもあたたかな小説である。はからずも(いや、どうしようもなくというべきか)加害者になってしまった者たちの罪のつぐないの物語である。罪のつぐないといっても、簡単ではないし、一様でもない。その複雑な諸相を余すところなく描こうとしている。
物語は、まず、亡くなった老女を三人がかりで穴の中に埋める場面から始まる。三人の様子から明らかに犯罪の隠蔽であるが、それを嫌がり、花をたむけようとする若い女、淡々とした女、冷徹にことを運ぼうとする男の三人が描かれる。この三人はいったい何故老女を捨てようとするのか。
このプロローグのあと、東京の大手出版社をやめて、九州のタウン誌で働く飯塚みちるの視点になる。すさまじいイジメ事件の犠牲者を弔うために、罪から逃れようとする少年少女たちを糾弾した記事で名前をあげたものの、そのうちの一人が自殺をくわだて、みちるの知らない事実が明らかになり、彼女は愕然となる。自分もまた加害者の一人になったことを知り、東京を去り、故郷に戻ってきたのだった。
そんな彼女をみかねた、元上司で、元恋人の週刊誌編集者の堂本宗次郎が、ある事件の話をもってくる。一部が白骨化した遺体が発見された事件だった。死因は不明で、大きな外傷はなかったが、遺体のそばに花束がそえられていて、死者への何らかの感情が思いやられた。その事件の背景を追い、記事にしないかの依頼だった。
みちるが追っていくと、事件に深くかかわる、もうひとりの〝みちる〟がいることを知る。彼女はみちるの小・中学校時代の同級生であり、たった一度、忘れることのできない出来事を共有した相手でもあった。いったい何があったのか。
みちるの調査のややおぼつかなさ(偶然たぐりよせる情報収集)と、家族をはじめとする関係者との温かなやりとりなど、居心地のよいミステリ、いわゆるコージー・ミステリを想起させる手触りで、すいすいと読み進めていくことができる。しかし主人公の過去のトラウマなどもそうだが、事件の背景が少しずつ重くなり、さらに事件の核心人物がみちるの知る人物であることがわかってからは緊張感が高まることになる。
ここで海外ミステリの話になるが、昨年(2024年)の11月に、ジェイムズ・リー・バークの『破れざる旗の下に』(早川書房)が上梓されたのだが、そこで僕は解説を担当した。バークは、南部を舞台にした人種と階級の衝突、過去の因習や家族のドラマ、不気味な人物像などで、「犯罪小説のフォークナー」と呼ばれることがあるのだが、バーク自身はこんなことを述べている。『「フォークナーは人間の怒りと心の泥沼に深く手を差し込む」けれど、それは「すべての西洋文学を貫く中心的なテーマが贖罪の探求」であるからだ』というのだ。
この言葉を、本書を読みながら思い出した。バークの作品は南北戦争を舞台にした戦争小説なので、戦争での殺人、誤っておかしてしまう殺人、強い意志でおかす殺人、衝動的に沸き起こる殺意と殺人など様々なものが描かれ、それぞれがみな心の中で悔いている。戦場での残虐な行為を重ねてきた下劣で飲んだくれの軍人たちの中にもそれはあるのだが、本書は平和な日本を舞台にしているので、過激さもなく、むしろごく普通の日常の中での暴力との対峙、具体的には暴力の支配下での消極的な共犯である。消極的であろうが、なされる行為は犯罪であり、非難されるべきことであるけれど、しかし読んでいると、抵抗できず、なすすべもなく犯罪に加担してしまう弱さが人ごとではなくなる。
『ひとはひとで歪むんよ。その歪みをどこまで拒めるかが、自分自身の力。私は無力でばかやった。いつも、歪みを受け入れることが愛やと思ってたし、そうすることで愛されようとしてたんよ』
(中略)ひとはひとで歪む。けれど、ひとはひとによって、まっすぐになることもできる。強さから輝きを分けてもらい、自分の糧として立ち上がることができる。
(356頁)
このくだりが実に力強い。とくに「ひとはひとで歪む。けれど、ひとはひとによって、まっすぐになることもできる。強さから輝きを分けてもらい、自分の糧として立ち上がることができる」という言葉が、贖罪における反省であり、間違いをおかす人間たちにむけての再生にむけた祈りでもある。「誰でもなく自分こそが、自分自身を深く愛し守れば、ひとは誰もが強くうつくしくなれる」という文章もあるが、このメッセージも深く心に届くのは、この罪のつぐないの物語が、切々と重く、辛く、悲しいけれど(でも温かいのだ)、何がしか読者の糧となるものを含んでいるからである。
池上冬樹(いけがみ・ふゆき)
1955年生まれ。立教大学日本文学科卒。著書に『ヒーローたちの荒野』、編著に『ミステリ・ベスト201 日本篇』など。