町田そのこ『月とアマリリス』

町田そのこ『月とアマリリス』

初めてづくしの特別な物語


 登場人物たちが勝手に、自由に動き始めた。

 ときどき、作家さんのインタビューなどで耳にする言葉だ。わたし自身、書いている中で似たような経験をしたことが何度かある。自分の思考が物語に追いついていないような、追いかけながらその様子を書き写しているような、不思議な気分になった。

 今回、『月とアマリリス』でそれを上回る経験、いや、もはや初体験をした。物語が突然生まれ、急成長し、わたしを置き去りにしそうな勢いで飛び立っていったのだ。

 まず本作は、事件記者である主人公が自分の地元で起きた死体遺棄事件の真相を追うという、いわゆるサスペンスというジャンルのものである。これまではどうにもハードルが高いように感じていたのだが、チャレンジすることにしたのだった。

 書き始めるにあたって、ノンフィクションライターの宇都宮直子さんに取材をさせていただいた。週刊誌の編集者の方にも同席していただき、事件を追う上での細かいエピソードや心構えなどを色々と聞いているうちに、物語がさらさらと──いや濁流のように轟轟と──押し寄せてきた。

 このときわたしは、まだ具体的なストーリーを結べていなかった。せいぜいが、数名の人物と彼らの繋がりを緩く思い描くくらいだった。果たしてきちんと書くことができるのか、という不安の方が大きかったのを覚えている。それが、宇都宮さんと話しているうちに、主人公の「みちる」の過去や抱えている思いが見えてきた。みちるがどんな取材をし、どんな失敗をしながら前に進むのか、その背中がありありと見えた。そして、みちるが追うことになる女性たちの人生が勝手に膨らんで、頭を支配してしまった。それぞれが動き、喋る。勝手に物語が育っていく。取材の時間は二時間だったが、何とこの限られたで全体のストーリーの八割が完成した。あんな濃密な時間は、あるいは稀有な体験は、もう二度と訪れないのではないだろうか。

 また、地元である北九州市を物語の舞台にしたのだが、それは単純に、リアリティを持たせたいという意図があった。自分がよく知った街の方が、そこに漂う空気感を描けるのではないかと思ったのだ。これは、正解だった。わたしの思い描く人物たちが小倉駅前を歩き、魚町銀天街で佇む。その姿はとても鮮明に思い描けたし、わたし自身が、書きながら彼女たちの息遣いを感じられた気がしたのだ。そして、北九州市が舞台だからこそ生まれたエピソードもおおいにある。

 すべてにおいて、初めてばかりの執筆だった。その勢いは、作品に宿っていると思う。しかし勢いばかりで雑、というわけではないのでご安心いただきたい。何度も何度も校正を繰り返し、初校ゲラの作業中にはあまりのストレスに大きな口内炎が三つできた(思えばこれも初体験)。校了日の朝、ギリギリまで、担当編集のKさんとゲラに向かい合った。

 どの作品も愛おしいけれど、本作は初めてづくしの特別愛らしい作品となった。みなさまにも、愛されますように。

  


町田そのこ(まちだ・そのこ)
1980年福岡県生まれ。福岡県在住。2016年「カメルーンの青い魚」で第15回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。2017年、同作を含む短編集『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。『52ヘルツのクジラたち』で2021年本屋大賞を受賞。著書に『宙ごはん』『夜明けのはざま』『わたしの知る花』『ドヴォルザークに染まるころ』、「コンビニ兄弟」シリーズなど。

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月とアマリリス

『月とアマリリス』
著/町田そのこ

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