〈第14回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」
そこへ「内通者は僕です」と慎から出動を命じられた。
CASE4 禁じられた関係:パートナーは機動隊員(1)
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ノートパソコンに目を向けたまま、三雲(みくも)みひろは机上のコーヒーの入った紙コップを取った。液晶ディスプレイに映し出された表には、「阿久津慎(あくつしん)」の氏名と職員番号、所属部署、階級などが並び、左上には顔写真も表示されている。警視庁職員の身上調査票だ。
慎は東京の山の手出身で、一流大学卒。警察学校を首席で卒業し、卒業配置も出世コースと言われる都心の大規模警察署だ。ケチのつけようのない経歴で、それだけに最新の記録である警務部人事第一課監察係から、警務部人事第一課雇用開発係職場環境改善推進室への異動に違和感を覚えた。
優秀な監察官だったって話だし、室長が飛ばされたのには、相当大きなトラブルが関わっているはず。みひろはコーヒーを飲みながら慎の身上調査票を隅々まで見た。しかし該当する記述はなく、他の人事のデータベースも調べたが、結果は同じだった。
みひろは息をつき、体を起こしてさらにコーヒーを飲んだ。出勤途中で買って来たもので、紙コップにはチェーンのコーヒーショップのロゴマークが印刷されている。
奥多摩(おくたま)署の会議室で柿沼也映子(かきぬまやえこ)と話してから、約二週間。あの晩以来、みひろは慎と彼が抱えているものが気になって仕方がない。さりげなく本人から聞き出そうとしたが上手くいかず、ならば警視庁内のデータだと早起きして出勤した。
閃くものがあり、みひろは紙コップを机に戻してノートパソコンに向き直った。一旦閉じた身上調査票を再度開き、「人事第一課監察係」でデータを絞り込む。慎のかつての上司や同僚の記録を見れば、何かわかるかもしれない。
首席監察官の持井亮司(もちいりょうじ)。理事官の柳原喜一(やなぎはらよしかず)。係員の本橋公佳(もとはしきみか)。面識のある人物から見始めたが三人とも立派な経歴で、印象に残ったのは柳原がバツイチなことぐらいだ。監察係のエリート集団ぶりを認識しながらも面白くなく、みひろは小さく鼻を鳴らした。最後の一人の記録にざっと目を通し、身上調査票を閉じようとして手が止まった。
液晶ディスプレイに表示されているのは、最後の一人の出勤簿。このところずっと欠勤しているが、理由を記入する欄は空いたままだ。怪訝に思い遡(さかのぼ)ってみると、今年の五月の頭を最後に一度も出勤していない。画面をスクロールさせて確認した氏名は、「中森翼(なかもりつばさ)」。二十八歳の警部補で、慎の直属の部下だったらしい。顔写真を見ると、くりっとした目が印象的な童顔のイケメンだ。
室長が監察係から職場環境改善推進室に異動になったのは、今年の六月。事後処理や手続きを考えると、異動の原因となるトラブルが起きたのは五月。この中森って人の欠勤と関係してる?
「うん。あるかも」
口に出して言い頷いた直後、
「何が『あるかも』?」
と頭上から問われた。驚きのあまり「ひっ!」と小さく叫び、みひろは顔を上げた。机の脇に、制服姿でファイルを抱えた豆田益男(まめだますお)が立っている。
「いえ、別に。おはようございます。びっくりさせないで下さいよ」
うろたえながらも挨拶し、みひろはノートパソコンを閉じた。にこやかに「おはよう」と返し、豆田は続けた。
「ちゃんとノックしたし、声もかけたよ。珍しく早いじゃない。まだ八時過ぎだよ」
「ええまあ。ちょっと調べものがあって……そうだ。豆田係長、監察係の中森翼さんってどんな人ですか? ずっと休んでるみたいですけど、どうしたんでしょうね」
ふと思いつき、みひろは訊ねた。すると豆田は真顔になり、身を乗り出してきた。
「中森くん? なんで? 何かあったの?」
「いえ。ていうか、何かあったか知りたいのは私なんですけど」
戸惑って答えると豆田ははっとして身を引き、
「はいはい、中森くんね。体調を崩したとか、家庭の事情とか聞いてるけど──ええと、書類はここに置けばいいのかな?」
と棒読みの芝居丸出しの口調で話を変え、ファイルを慎の机に置いた。その姿にみひろは「何かある」と確信したがこれ以上は訊かない方がいいと判断し、話を合わせた。
「新しい調査事案ですか?」
「そうじゃないんだけど、阿久津さんに『急ぎで資料を集めて欲しい職員がいる』って頼まれたんだよね」
「へえ。誰ですか?」
問いかけながら立ち上がり、みひろも慎の机の前に行った。机上のファイルを取って中の書類を覗くと、男性の顔写真が目に入った。書類を取り出そうとした時、出入口のドアが開いた。
「おはようございます」
そう告げて会釈し、慎が部屋に入って来た。今日もダークスーツを着て髪を整え、手にビジネスバッグを提げている。挨拶を返したみひろと豆田をメガネのレンズ越しに見て微笑み、こう言った。
「二人とも早いですね。素晴らしい」
何が素晴らしいのかは不明だが全然笑っていない目が気になり、みひろは慎を見返した。と、豆田がみひろの手からファイルを取り、歩み寄って来る慎に差し出した。
「ご依頼の資料です」
「ありがとうございます。さすがに仕事が早いですね。助かります」
笑みをキープして返し、慎は机にバッグを置いてファイルを受け取った。書類を出し、読み始める。白く整った横顔から笑みが消え、目の光が強くなっていく。
「始業時刻まで二十分ほどありますが、出動です」
書類を読み終えるなり、慎はみひろに告げた。
「その書類の職員を調査するんですか? でも、監察係の指示はないですよね」
慎と、彼を怪訝そうに見ている豆田に目をやり、みひろは問うた。頷き、慎は答えた。
「ええ。監察係発信ではなく、職場環境改善推進室の単独調査です。情報源、つまり内通者は僕です」
2
車に乗り、みひろと慎は本庁を出発した。困惑する豆田に慎は、「情報と証拠を揃えて上申し、監察係を納得させます」と告げて職場環境改善推進室を出た。
「調査対象者は堤和馬(つつみかずま)。三十歳、独身。階級は巡査部長で、本庁警備部警備第一課警備実施第一係に所属しています。今日は当番勤務明けで、既に帰宅しているはずです」
ハンドルを握って前を向いたまま、慎が告げた。助手席でさっきのファイルの書類に目を通し、みひろは返した。
「本庁の職員ですか。非違事案の内容は?」
「堤には、交際中の職員がいます。泉谷太郎(いずみやたろう)。二十九歳、独身。本庁警備部警備第一課第二機動隊所属で、階級は巡査長」
「名前が太郎で、機動隊所属……つまり、男性同士の交際ということですか? で、それが非違事案に当たると?」
頭を整理し、みひろは問うた。頷き、慎が即答する。
「はい」
「うわ。『警察官にゲイはタブー』って、本当なんだ」
思わず声を上げてしまい、「すみません」と謝った後、みひろは再度問うた。
「堤さんも泉谷さんも、独身なんですよね? 交際が職務や職場環境に支障を来しているんですか?」
「いいえ」
「なら、問題ないでしょう。プライバシーの侵害、っていうか今どき? セクシャル・マイノリティへの差別と偏見が、ネットやテレビで毎日のように議論されてるこの時代に? 同性のカップルに、結婚証明書的なものを発行する区役所もある令和の世(よ)に? むしろ、警察の考え方の方が大問題ですよ」
身振り手振りも交えて一気に訴え、みひろは反撃に備えて隣に向き直った。一瞬の間を置き、慎は告げた。
「概(おおむ)ね、想定内の反応です」
ジャブをかまされた気がしてみひろが黙ると、慎はこう続けた。
「我々警察官の使命は、社会の平和と市民の安全の厳守。ゆえに警察は一枚岩の組織でなくてはならず、そこに恋愛を含む私情を持ち込むのは御法度です。私情は組織の規律と統制を乱し、こと犯罪現場に於いては、市民はもちろん警察官を危険にさらす可能性があります。加えて警察はいわゆる男社会であり、同性間の恋愛を認許すれば異性愛者との軋轢(あつれき)などトラブルの発生は必至。そのトラブルが誰かの生命の危機に直結するのが、警察官という職業なのです」
お得意のド正論。みひろは納得がいかず、またこちらをチラ見すらしない慎に苛立ちも覚え、言い返した。
「じゃあ、医療現場は? 同じようにチームで市民の生命の危機と対峙してますけど、スタッフ間の恋愛を禁止してる病院なんて聞いたことないですよ」
「それは屁理屈ですね」
「そもそも、同性間の恋愛を禁止する規則はあるんですか? 『懲戒処分の指針』の『その他規律に違反するもの』? 確かに『不適切な異性交際等の不健全な生活態度をとること』って記述はありますけど、異性交際ですよ?」
「それも屁理屈ですね」
視線も表情も動かさずに受け流され、みひろの苛立ちは怒りに変わる。が、口を開こうとすると慎は先回りで言った。
「交際の件だけで、堤を調査対象にした訳ではありません。彼は別件で明確な規則違反をしています。その現場に、我々は向かっています」
「現場って?」と訊こうとして、みひろは車が堤が暮らす千代田(ちよだ)区内の独身寮とは逆方向に走っているのに気づいた。