週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.61 吉見書店竜南店 柳下博幸さん
『クロコダイル・ティアーズ』
雫井修介
文藝春秋(9月26日発売)
タイトルの「クロコダイル・ティアーズ=ワニの涙」とは、嘘泣きや偽りの涙。悲しんでいるように見せて実は……という慣用句。古代ローマ時代にはすでに「ワニが獲物を食べながら涙を流す」ことが知られており、かのシェイクスピアも作中で「計略としての涙」「偽りの懺悔としての涙」を「ワニの涙」と表現している。実際は体内の塩分排出行為だったり、眼の乾燥を防ぐためだったりと、ウミガメが産卵の時に流す涙と現象としては同じなのに、かたや慈愛に満ちた涙と受け取られ、淡水域最強生物であるワニはその見た目から狡猾な印象にリードされる。真実がどうであろうとも無関係に無慈悲に。
老舗の陶磁器店を営む夫婦は、近くに住む息子夫婦や孫と共に幸せに暮らしていた。跡継ぎにも恵まれ、この先には悠々自適な未来が待っているはずだった。
しかし、平和な空気が突然息苦しいものに変わる。
「想代子、遅ぇな」
妻に電話する息子の声からは隠すことをしない不機嫌さが滲む。和やかな団欒の空気が一変し、ここから家族の中に生じている僅かな軋みが父親によって語られる。息子による妻へのDV疑惑、嫁姑の微妙な軋轢。どれもが疑念の域を出ない些細な事だが足元から不穏な空気が徐々に忍び寄る。そして妻が法事で帰省した夜に悲劇が起こる。警察からの深夜の電話で息子が何者かに殺害されたことを知った家族は突然の訃報に戸惑い、うろたえたが、あっけなく逮捕された犯人は息子の妻の元交際相手だった。
関与を否定する妻に「あなたが悪いわけじゃない」そう慰める父親と
「どうしてまた、そんな危ない人間と……」との思いを捨てきれない母親。
それでもこれからの生活を考え孫たちとの同居を始めたが、裁判の席で「(妻から)夫殺しを依頼された」と主張した犯人の発言が、息子を失った母親の心の隙間に嫁への疑念がすっぽりと入り込む。
「それでね、あの子、私たちと話しながら顔をくしゃくしゃにしてハンカチで目元を押さえるんだけど、どうみても涙が出ていないの」
疑念が疑念を呼び、エスカレートした感情は暴走を続けとどまることを知らない。ほんとうに息子の妻は事件とは無関係なのだろうか? 最後に頬を流れた涙に本当の真実が描かれている。
あわせて読みたい本
『オセロー』
ウィリアム・シェイクスピア 訳/福田恆存
新潮文庫
シェイクスピア四大悲劇の一つ(ちなみにロミオとジュリエットは含まれません)。第四幕第一場の場面でワニが現れる(P.149)。オセロー「ええい、悪魔め、この悪魔が!大地が女の涙で孕むものなら、落ちる涙の一つ一つから鰐が生まれ出よう!消えうせろ!」。オセローが嫉妬に狂い惑わされる中で効果的に暗示されるワニ。ぜひ一緒に読みたい1冊です。
おすすめの小学館文庫
『現代の小説2022 短篇ベストコレクション』
編/日本文藝家協会
小学館文庫
2021年に文芸誌に発表された短編の中から厳正にセレクトされた、現在の日本の短編小説ショーケース。笑いあり、しんみりあり、ホラーありと、どの作品も不思議な味わいばかりですが、個人的に初見の作家・パリュスあや子さんに衝撃を受けました。凄い。読書に新しい出会いを求めている方はぜひこの1冊を。