【P+D文学講座】スポーツと近代詩 #1
現代人よ、もっと詩を読め!P+D文学講座第一回となるこの講義では、近代詩の楽しみ方について「スポーツ」との関係から探ります!
皆さんはじめまして、P+Dの「加勢 犬(かせい けん)」です。今回から、P+D文学講座の講師を務めさせていただきます。
M野: 先生、自分23歳になるまでほとんど文学作品なんて読んだことなかったんですけど、講義についていけますかね?
犬: 大丈夫! 「ついていく」とか「ついていけない」とか、そういう話じゃないんだ。M野くんはM野くんなりの楽しみかたを見つけてくれればいい。ときに、M野くんは詩を読むかい?
M野: 詩っすか?。たしか「五・七・五」の…
犬:それは俳句だね。後でも詳しく触れるけど、近代以降の「詩」というのは決まった型を持たない自由な言語表現なんだ。
M野:あ〜わかった! 平たくいえばポエムっすよね。
M野:(いきなり怒られたーー!!!)
M野:…先生?
M野:先生!いいから授業を始めてください!
近代詩ってなんだ?
犬: OK。ではそもそも「近代詩ってなに?」というところから話を始めよう。こちらのスライドを見てくれるかな?
M野: いきなり講義っぽくなったな。
犬:先にも述べた通り、「近代詩」というのは決まった「型」を持たない表現なのだけど、日本の場合はそれが伝統的な「和歌」の形式・情緒からの出発を意味したんだね。
M野:じゃあなに書いてもOKってことですか?
犬:そう!原則的にはなにを書いてもOK!ただその代わりに「批評」のもつ権能が社会のなかで大きくなった。「これは良い詩、これはダメな詩」という風に表現が値踏みされるようになったと言ってもいいかな。
M野: ひひょー。
犬:さらに、日本の近代文学の成立には「言文一致」というややこしい問題がからんでいるんだけど、M野くんは「言文一致」ってなんのことだかわかるかな?
M野: 「感じたままのことを言おうぜ!」ってことですかね。
犬: すこし違う。これはざっくり言うと「話し言葉」と「書き言葉」を近づけようってことなんだけど、だからと言ってみんなが各地方の方言で書き始めたかといえば、けっしてそんなことではない。
「言文一致」というのはつまり、「標準語」、ひいては「国語」と呼ばれるものを生み出す試みだったんだ。だから、近代詩にとっての口語体もまた、近代日本の歴史と切り離せないものなんだ。
M野: ふ〜ん。それはそうと先生、なんで今回は「スポーツと近代詩」がテーマなんですか?
犬: M野くんはスポーツが好きだろ? 現に今日だってそんな超ミーハーなサポーターシャツを着ているじゃないか。
M野:ええ!? そんな理由ですか?
犬: それも理由だけど、スポーツを題材にした詩を読んでいけば、近代詩の面白い側面が伝わってくるじゃないかと思ってね。
「動き」をどう表すか:萩原朔太郎「およぐひと」、山村暮鳥「だんす」
犬: まずはこの萩原朔太郎の詩から見てみよう。M野くんはこの詩をパッと読んでどう思う?
M野: 長いっす。
犬: 長い? かなり短い部類の詩だとは思うけど…
M野くん: いや、タテに長いっす。
犬: なるほど。それは面白い着眼点だね! じゃあこの「長さ」を生み出しているのはどんな要素だろうか?
M野くん:「およぐひとの」っていう頭の言葉が繰り返されているのと、あとは…ひらがなっすかね。
犬: いいねえ!!まさに言った通りで、「泳ぐ人の体は斜めに伸びる」と漢字を交えて表記していれば、この詩はぎゅっと短くなったはずなんだ。
それに、表意文字である漢字を使ったほうが、本来もっと「動き」がイメージしやすくなるはずだろ?
犬: 僕にはこの詩の前半部分が、スーパースローカメラで撮った映像のように読めるんだよね。スイスイと気持ちよく泳いでいるというよりは、詩の表現にもあるように延々と「ひきのばされ」た動きを観察している気がする。
こういう風に…
犬:お……
犬: よーーーーぐ、みたいな。
M野: およーーぐ(笑)。確かに、なんかどんくさい感じの泳ぎ方ですね。
犬: ただし、その「どんくささ」のなかでも、朔太郎はていねいに「動き」を抽出しようとしているんだね。「心臓(こころ)はくらげのようにすきとほる」という表現からも、身体の動きと内面とが一体になって、無心になって泳いでいる様子が感じられると思う。
では、「スポーツ」という話題からは少し外れてしまうけど、山村暮鳥の「だんす」という詩の前半部分を読んでみよう。
M野: あ、こっちの詩はフレーズが短くてテンポがいい。なんだか「躍動する自然!」という感じがしますね。
犬:そうだね。都会的なダンス・ホールの一コマかと思いきや、「しだれやなぎ」「あかんぼのへその芽」というひらがなの有機的なイメージが水平的に広がっていくのが面白い。
だけど、そこにきて「水銀」という無機物のイメージにぶつかると、詩の言葉がここでビクッとするように感じないかい?
M野: ていうか、漢字が難しくてビビる…。「歇私的利亞」ってなんて読むんですか? なんだか暴走族の当て字みたい。
犬: 「ヒステリア」だね。ここでも有機的な〈生〉のリズムが無機的な〈死〉のイメージとぶつかって、ひきつけを起こしているみたいだろ? 「あかんぼ」に「水銀」だなんて、妊婦さんが聞いたら卒倒しちゃうよ。
M野:確かに、急にぎこちない感じ。
犬: じつはこの詩は、さっき取り上げた萩原朔太郎に絶賛された詩なのだけど、朔太郎はそこでこんなことを言っているんだ。
「あらし」「あらし」といふ最初の二行の言葉から、読者は突然その前面の舞台を燕のやうに飛び交ふあるものの運動を感知する。それは烈しい狂躁的な、それで居てどことなく女性的の優雅さをもった運動のやうに思はれる。
(「日本に於ける未来派の詩とその解説」より)
M野: つばめ…女性…
犬: この評論のタイトルにもある「未来派」というのは、イタリア発の超アバンギャルド集団で、都市的な「スピード」や「ダイナミズム」の表現を中心に据えたその芸術論が、当時は世界中で大ブームを起こしたんだ。
M野:朔太郎は「だんす」にそういったダイナミックな要素を感じているということですね。「嵐を巻きおこせ!」的な。
犬: もう少し「はんなり」したイメージだろうけど、まあ大体その通りだと思う。そしてそういう風に考えると、詩の中で繰り返される「あらし」というひらがなも、自然界の「嵐」を表しているのではなくて、マンガ的な「擬音」や「効果線」に近い表現だといっていいと思う。
M野: つまりこういうことですね、先生!
犬: 多分そういうことだ、M野くん!
【次回】オリンピックの詩集? ストライクゾーンの詩? 先生の講義は「スポーツと近代詩 #2」に続きます。
初出:P+D MAGAZINE(2015/12/17)