辻邦生 – 努力を重ね続けた“藝術家”の素顔に迫る
小説家として、数多くの作品を発表し、多くの読者を魅了した作家・辻邦生。元文藝春秋の文芸担当編集者、高橋一清氏が、『辻邦生』との思い出を語ります。
小説家として、みずみずしい感性による物語性を追求した多くの作品を発表し、多くの読者を魅了した作家・辻邦生。
元文藝春秋の文芸担当編集者として、辻邦生と多くの時間を共有した高橋一清氏に、辻邦生との思い出を語って頂きました。
女学生に人気のあった、イケメン教授『辻邦生』
パリ大学留学から帰国後、大学でフランス文学を講義する一方で、小説家として、みずみずしい感性による物語性を追求した多くの作品を発表し、特に『安土往還記』『背教者ユリアヌス』『嵯峨野明月記』等の歴史小説で、多くの読者を魅了した作家・辻邦生。
中でも、清冽な文体で、永遠の美に生きる魂の彷徨と死生観を描いた筆者初期の傑作として
1963年、第4回近代文学賞を受賞した『廻廊にて』、そして、今回P+DBOOKSより復刊となった『夏の砦』といった作品は、透明感に溢れ、今も色褪せない魅力に満ちています。
今回は、元文藝春秋の文芸担当編集者として、辻邦生と多くの時間を共有した高橋一清氏が、辻邦生との思い出を語ります。写真で見ても分かるように辻は“イケメン教授”でしたので、女子学生の人気の的だったようです。
辻邦生、1963年、能登行きの列車内にて(写真提供:学習院大学史料館)
『辻邦生』作家として、人として
著:高橋 一清
辻邦生さんの『夏の砦』を読んだのは、学生時代最後の頃だった。これまでの日本の小説にはない、みずみずしい感性と創造性にあふれていた。昭和42(1967)年春から文藝春秋で働くことになっていた私は、この人に小説を書いてもらおうと、ひそかな思いを抱いた。
入社してすぐ、「文學界」編集部に配属された。その最初の編集会議で「辻邦生」をあげ、執筆を依頼したいと言った。しかし、賛同は得られなかった。
会議のたびに、名前を口にする私に、挨拶のみと面会の許可が出たのは秋になってからだった。立教大学の教員室に辻さんを訪ねた。助教授として、フランス文学の講座を担当しておられた。作品世界から「ヨーロッパの貴公子」を想像していたが、剣道の心得があり、腰を低く構えた特有の歩き方をされた。その日が雨模様で、ゴム長靴を履いておられたことで、かえって親しみを覚えたのだった。私は、この機会を逃したくなく小説の執筆を依頼した。
頂いた作品は、昭和43(1968)年の3月号「文學界」に載った。『叢林の果て』と題して、中南米の革命戦士を描いた百枚ほどの作品である。独白を交互に並べ、改行がない、新しい文学の担い手として、意欲あふれる小説だった。約束を破って入手した作品であるが、編集長は何も言わなかった。わずかな間に、辻さんは文壇で注目の作家になっていたのである。
文藝誌の稿料の安さをぼやかれたが、一夕、国分寺市東元町の自宅に招かれ、佐保子夫人の手料理を御馳走になった。部屋に立机があるのに気付いた。教師の勤めを終えて帰宅し、夕食をとると睡魔が襲う。椅子に座ると居眠りが始まるので、立って読み書きをするとのことであった。辻さんは立教大学から学習院大学に移り、大学教授をしながら作家活動を続けた。両立する方法として、金曜日の夕食をたらふく食べ、熟睡し、土曜日の朝から机を離れないで書き続け、日曜日に眠気で頭脳が働かなくなるまで、原稿用紙に向かうとのことだった。
筆記用具は鉛筆。原稿用紙は『夏の砦』で味を占め、河出書房新社の原稿用紙を、最後の執筆まで愛用された。パリに滞在中の辻さんに書いていただきたく、河出書房新社に上がり、原稿用紙を分けていただき、辻さんのもとに空輸したことがあった。
辻さんの文章は、明晰で読みやすい。手が書く道具のように自然に動いて、何の抵抗感のない文章が書けるようになりたいと、毎日、原稿用紙何枚かの文章を書くことを自らに課した。先人の文章では、横光利一を筆写し感覚的な内容をいかに文章化するか学んだ。志賀直哉は中学生の頃に書き写し、清澄さにおいて日本の散文の最高のものとして、謙虚に学んだ。志賀直哉には、物を正確に見る視線のあることに気付いて、「純粋な視覚になったようにして追ってゆく志賀直哉の澄んだ眼差しに、私は、生理的なよろこびを味わっていた」と記した文章がある。その日記などを通して知る志賀直哉の気質と似たものが辻さんにあることを、長年、側にいた者として感じ取っていた。理性を働かせ、対応されるが、時として志賀直哉にあったという快、不快の感情が表出することがあった。
1955年、国分寺の自宅で佐保子夫人と(写真提供:学習院大学史料館)
辻さんに『小説への序章』という小説論がある。これを著わして、辻さんは本格的に小説を書き始めた。緻密に構成して書く作家であった。細部の描写のため、克明なノートがとられている。資質に恵まれた藝術家が、努力を重ねて身につけた手法で、たゆまず書き続けた。
辻さんの作品には、冒頭に献辞が記されている例が多い。「Aに」が相当数あるが、これは佐保子夫人へという印である。『天草の雅歌』には福永武彦、『安土往還記』では森有正、『背教者ユリアヌス』では渡辺一夫の名前が記されている。その作品を書く動機を与えてくれた先人、また扱う主題について啓発された恩師である。捧げられた人の思索と業績を重ねて作品を読むと、作品は深く理解できる。
文藝春秋では私が頼んでも、出版部は対応をせず、作品はことごとく他社の出版物に収められた。それでも、雑誌の連載企画を受けていただき、辻作品の刊行にありついた。『十二の肖像画による十二の物語』『十二の風景画への十二の旅』『私の映画手帖』、そして『フーシェ革命暦』。これらは私が本作りをした。それ以後、幾つもの約束を交わしていたが、果たされず終わった。平成11(1999)年7月29日、逝去。享年73。
辻さんが存命なら74歳となる誕生日、9月24日に、高輪プリンスホテルで「お別れの会」を開いた。この時、佐保子夫人の許しを得て、祭壇に、私が持ち合わせている辻さんの全作品を刊行順に並べた。4年後、74歳になる誕生日に、パリのデカルト街37番地のアパルトマンの壁面に記念のプレートが取り付けられた。「日本の作家 辻邦生 この建物に1980から1990まで 滞在」。隣の建物には、ヴェルレーヌとヘミングウェーが住んでいたとのプレートがある。
高橋 一清 (Kazukiyo Takahashi)
1944年生まれ。松江市在住。
早稲田大学第一文学部卒業後、1967年、文藝春秋に入社。「文學界」「別册文藝春秋」「文藝春秋」「週刊文春」「オール讀物」の各編集部、また出版部部員を経て、「別册文藝春秋」編集長、「文春文庫」部長、「私たちが生きた20世紀」特別編集長、「文藝春秋臨時増刊」特別版編集長を平成17(2005)年3月まで務める。その間、日本文学振興会理事、事務局長として芥川賞、直木賞などの運営にあたる。同17年の4月より松江観光協会に観光文化プロデューサーとして赴任。文化観光による松江の魅力を国の内外に発信している。著書に『編集者魂』『作家魂に触れた』『百册百話』『芥川賞・直木賞をとる! あなたも作家になれる』等。
おわりに
高橋氏の語る辻邦生は如何だったでしょうか?
『夏の砦』は、P+DBOOKSから絶賛発売中です。
北欧の都会にタピスリの研究に訪れた支倉冬子が、ある日、忽然と消息を絶った・・・。 生の回復を求める魂の遍歴を精緻に描き、辻邦生の“死生観“が見事に結実した初期の金字塔的作品。「創作ノート抄」も併録しています。
辻邦生ファン必見ニュース!
辻邦生の自筆原稿や創作ノート等の展示
「努力を重ね続けた“藝術家”辻邦生の素顔に迫る」
辻邦生氏が生前教鞭をとっていた学習院大学史料館で、2016年7月15日~8月12日まで、「春の戴冠・嵯峨野明月記」展が開催されます。辻邦生の自筆原稿や創作ノート等の展示のほか、講演会、朗読会等も開催されます。
詳細は学習院大学史料館ホームページでご確認ください。
初出:P+D MAGAZINE(2016/05/27)