【実例つき】“信頼できない語り手”ってなんだ? 小説用語を徹底解説
小説や映像作品の中でたびたび用いられる「信頼できない語り手」というトリック。現代小説やアニメの中で「信頼できない語り手」の技法がどのように取り入れられているのか、実例とともに解説します!
「信頼できない語り手」という言葉を聞いたことがありますか? これは小説や映画などで物語を進める際に使われる技法のひとつで、主人公やナレーターといった、物語の“語り手”の信頼性をあえて低くすることによって、読者(観客、視聴者)を惑わせるというものです。
言葉だけじゃよく分からない! という方はまず、以下の文章を読んでみてください。
僕と彼女は、付き合って3年。 彼女は同級生の男子から大人気で、今日も彼女の周りには、大勢の男たちが群がってる。誰にでも愛想がいいから、ちょっと心配になっちゃうなあ…。 でも、彼女は僕に夢中なんだ。 今日もデートの約束をしてる。そろそろ会える頃かな……。 「今日もわたしの握手会に来てくれて、ありがとう!」 |
……お分かりでしょうか。冒頭の「付き合って3年」という言葉から、読み手は一瞬“彼女”が“僕”の恋人であるかのような印象を抱きますが、実際には“彼女”はアイドルで、“僕”はそのファンに過ぎなかったのです。
語り手である“僕”の「彼女は僕に夢中」「喧嘩だって一度もしたことがない」という言葉は、意図的ではないにせよ、読者を勘違いさせてしまいます。このような、語り方の曖昧さや不正確さによって、読み手を混乱させる語り手こそが「信頼できない語り手」です。
「信頼できない語り手」がもたらす効果と、2つのパターン
では、この技法を用いることで、文章にどのような効果が生まれるのでしょうか。イギリスの作家・英文学者であるデイヴィッド・ロッジは、『小説の技巧』という著作の中で、以下のように述べています。
物語が我々の関心をそそるためには、現実の世界と同様、小説世界内部での真実と虚偽を見分ける道が与えられていなくてはならない。
信用できない語り手を用いることの意義もまさに、見かけと現実のずれを興味深い形で明らかにできるという点にある。人間がいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかを、そのような語り手は実演してみせるのだ。そうした欲求には、かならずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない。
『小説の技巧』より
信頼できない語り手は、人間が現実を歪めたり隠したりする存在であるという事実を読者に思い出させることによって、「我々の関心をそそる」のです。具体的には、「いったい何が本当なんだろう?」と読者に思わせることで、物語の世界全体に不安なイメージを与えたり、物語のテーマをより重層化するといった効果をもたらします。
また、「かならずしも本人の自覚や悪意が伴っている必要はない」というのもポイントです。「信頼できない語り手」には大きく分けて、
①【悪意なき語り手】本人に悪意がなくとも、誤解や強い偏見、妄想などのせいで読み手をミスリードに陥らせる語り手(冒頭のアイドルとファンの例) ②【悪意のある語り手】明確な悪意や意図を持って読み手を騙す語り手 |
という2種類があります。
それではここから、語り手が①、②のどちらに当てはまるかも合わせて、「信頼できない語り手」が効果的に用いられている実際の小説(映像)作品を解説していきます!
【ケース1】「詩の解説」のふりをした、「妄想」――ナボコフ『青白い炎』
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まずご紹介するのは、『ロリータ』などの作品で有名なウラジミール・ナボコフの『青白い炎』。
この小説は、ジョン・シェイドという詩人の遺作である長編詩『青白い炎』と、彼の友人を名乗るロシア文学者、チャールズ・キンボートによる詩への注釈という体裁をとっています。
この作品の「語り手」であり、長大かつ難解な詩を解説する重要な役目を担うキンボート。ところが、キンボートによる注釈には、奇妙な部分が散見されます。そのおかしさは、シェイドの詩の創作法について書かれた以下の「前書き」を読むだけでもお分かりいただけると思います。
カードには決定稿の日付ではなく、《修正原稿》ないし最初の《清書原稿》の日付を書き記している。つまり、二度、三度と手を入れた後の日付よりもむしろ、実際の創作の日付を書き留めているということなのだ。わたしの現在の下宿のすぐ前に、ひどく騒々しい遊園地がある。
シェイドの詩についての話の直後に唐突に挿入される、「わたしの現在の下宿のすぐ前に、ひどく騒々しい遊園地がある」という一文。キンボートはこのように、たびたび詩についての解説から脱線し、妄想じみたことを語るのです。
たとえばシェイドの詩の中に、雪についての比喩である「水晶の国」という一行があれば、
たぶんゼンブラ、わが親愛なる祖国への言及であろう。
と、なぜか詩の中で、自分自身の祖国について触れられていると好き勝手に解釈してしまいます。
読者は物語を読み進めるに従い、キンボートが本当はシェイドの友人ではないこと、キンボートの詩の解釈はすべて、彼自身の妄想であることに気づかされます。キンボートは発狂しており、ただの隣人であるシェイドの書いた作品について、ひどく曲解した独り言を言っているに過ぎないのです。つまり『青白い炎』のキンボートは、【悪意なき語り手】です。
……この作品は極端な例ですが、そもそも、一人称で語られるすべての物語は、語り手自身の主観だけで進行します。語り手に能力や記憶の限界がある限り、すべての語り手は「信頼できない語り手」である、と言っても間違いではないでしょう。
【ケース2】肝心な部分をあえて語らない、悪意ある「語り手」――クリスティ『アクロイド殺し』
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次に挙げるのは、明確な意図を持って読者を騙そうとする、【悪意のある語り手】が主人公の作品。ミステリーの女王、アガサ・クリスティの代表作、『アクロイド殺し』です。
名探偵ポアロの隣人であるシェパード医師の手記という体裁で書かれた『アクロイド殺し』。その最後には、「アクロイド殺し」の犯人こそが、語り手であるシェパード医師だったという驚きの結末が待っています。
語り手であるシェパード医師は、読者に対して常に自分の行動を開示しているかのように振る舞います。しかし実際は、殺人に関しての重要な部分だけをあえて語らず、曖昧な書き方でごまかすことによって、読者に自分は犯人ではないと思い込ませるのです。
たとえば、立ち寄っていたアクロイド氏の書斎を立ち去る場面においては、
振り返って、やり残したことがないだろうかと考えた。
……と書き記します。これは一見、文字通り何か忘れ物がないかを確認しているだけのように思えますが、実は殺人を終えたあとの証拠隠滅をしようとしているのです。
また、名探偵であるポワロに手記の存在を指摘され、それをぜひ見せてほしいと言われたシーンでは、
そんなにすぐに見せてくれといわれても、心の準備ができていなかった。頭を絞って、ある細かい部分を思いだそうとした。
……と、何かを気にしている素振りを見せます(ここで「思いだそうと」しているのはもちろん、殺人の証拠になるようなことを記述してしまっていないかどうかです)。
「語り手が犯人」というトリックはミステリーや推理小説においていまや定石とも言えますが、『アクロイド殺し』が発表された1926年には、新鮮かつ常識破りなものとして「この手法がフェアであるか?」という論争を呼び起こしたほどセンセーショナルなものでした。
日本人作家の作品の中では、1921年に発表された谷崎潤一郎の犯罪小説『私』にも、同様の手法が用いられています。
【ケース3】地味で無名な弱小フィギュアスケーター、と思いきや!? ――アニメ『ユーリ!!! on ICE』
(TVアニメ『ユーリ!!! on ICE』PVより)
「信頼できない語り手」の技法は、小説のみに限らず、映像作品でも用いられることがあります。最後にご紹介するのは、フィギュアスケートを題材にしたアニメ『ユーリ!!! on ICE』です。
「僕の名前は勝生勇利。どこにでもいる日本のフィギュアスケート特別強化選手で23歳!」
『ユーリ!!! on ICE』の第1話は、主人公・
勇利のスマートフォンには「最下位に沈んだ勝生、今回で引退か」というニュースが飛び込んできており、自信なさげな勇利のキャラクターや「初グランプリファイナルで最下位。現実がまだ受け止めきれないよ!」などという本人のセリフも手伝って、視聴者はまるで勇利が弱小スケーターであるような印象を抱いてしまいます。
ところが、物語が進むにつれ、彼を応援するためのパブリック・ビューイングが開催されていたり、地元に帰省すれば老若男女から声をかけられたり、しまいには世界ランク1位であるビクトル・ニキフォロフの滑りを完璧にコピーしてしまう……、といった描写が挟み込まれ、勇利は実は世界ランク1位を狙えるほど十分な実力を持った人気スケーターであり、世界的にも注目を浴びているという事実が明らかになるのです。
勇利はもちろん、【悪意なき語り手】に当たります。このように、【悪意なき語り手】には、極端に自信や自覚が弱いせいで、事実とは異なる印象を受け手に与えてしまうケースもあります。
おわりに
今回は、「信頼できない語り手」というトリックについての用語解説をしてきました。冒頭でも述べたように、この手法は小説のみならず、多くのアニメや映画、ドラマにおいても、時代やジャンルを問わず頻繁に取りあげられ続けています。
主人公の言うことは絶対に正しい! という読み手の固定観念は、時に物語の世界を狭めます。信頼できない語り手という技法を覚えておけば、「誰が本当のことを語っているのだろう」という心地よい緊張感を持ち続けたまま、作品世界に没頭することができるのです。
次に小説を手にとる際は、“語り手”の語ることが果たして本当に信頼できるものかどうか、意識しながら物語を読み進めてみてはいかがでしょうか。
初出:P+D MAGAZINE(2017/06/10)