【著者インタビュー】長谷川晶一『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』
1993年にドラフト1位でヤクルトスワローズに入団し、魔球のような高速スライダーで野球ファンを熱狂させながらも、現役生活の大半を故障との闘いに費やした伊藤智仁選手。その初の本格評伝を記した、著者にインタビュー!
【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】
高速スライダーで野球ファンを熱狂させた伝説の投手の知られざる半生
『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』
インプレス
1800円+税
装丁/TwoThree
長谷川晶一
●はせがわ・しょういち 1970年東京生まれ。早稲田大学商学部卒。主婦の友社入社後、『Cawaii!』編集部等を経て、03年ノンフィクション作家に。「トモさんとは同い年で、彼の入団と僕の就職、彼の引退と僕が独立した年まで一緒。どうしたって思い入れはあります」。著書『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』『プロ野球12球団ファンクラブ全部に10年間入会してみた!』『ギャルと「僕ら」の20年史―女子高生雑誌Cawaii!の誕生と終焉』等。168㌢、63㌔、O型。
〝悲運のエース〟の自己評価は〝幸運〟――取材の中で価値観の逆転に意識が移った
筆者はン十年来のカープファンだが、特に93年のヤクルトスワローズ、伊藤智仁投手の高速スライダーほど、相手ファンには憎らしく、そのくせ見惚れてしまうものはなかった。
長谷川晶一著 『幸運な男』は、その伊藤の初の本格評伝。93年にドラフト1位で入団後、現役生活の大半を故障との闘いに費やした彼は、俗に〈悲運のエース〉とも称され、最速153㌔の直球と、〈直角に曲がる〉(古田敦也捕手)高速スライダーを駆使した全盛期のピッチングは、それだけに球界有数の伝説と化した。
驚異の肩の可動域をもち、それゆえに故障にも苦しんだ彼は、悲運のレッテルを自ら否定し、むしろ自分は恵まれていたと言い切る。マウンドでの活躍を光とすれば、ケガに泣き、つらいリハビリと向き合う日々は影―。それらが背中合わせに共存してこそ、野球は素晴らしいのかもしれない。
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記録より記憶に残るのが名選手の条件。中でも伊藤は「誰かに語りたくなる投手の1人」だと、近著に『いつも、気づけば神宮に』もある10歳からのヤクルトファン・長谷川氏は言う。
「僕は93年4月20日の初登板も、03年11月、彼の引退セレモニーも現場で観ていますし、観てしまった以上、語らずにいられないのがトモさんのピッチングなんです。あのスライダーのキレはもちろんのこと、長い手足を生かしたフォームやマウンド上の立ち姿がもう、奇蹟的に美しくて。
つまり結論から言えば、あの時、彼のピッチングを同時代に体験した全員が、僕は幸運だと思うんです」
現に〈まるで、稲尾(和久)のようだ〉(野村克也監督)、〈伊藤のスライダー。あれは魔球でした〉(中日・立浪和義内野手)と、当時を知る人は敵味方なく、あの時の伊藤を絶賛する。93年春、三菱自動車京都から入団した彼は、一軍初戦で10奪三振の鮮烈なデビューを飾り、2か月余りで7勝をマーク。ストレートでもスライダーでも球の軌道や腕の振りが変わらない〈イヤなピッチャー〉の出現はひとつの事件となった。
この時点で彼は14試合に登板、防御率0・91を記録するが、6月は5試合で694球と明らかに投げ過ぎた。結果、球宴前に戦線離脱した原因を監督の酷使に求める声は今も根強いが、野村監督自身が伊藤の投球に惚れこみ、スライダーを純粋に見たがったとも聞く。
「誰もが書きたがった初評伝を彼が僕に書かせてくれたきっかけは、テレビ朝日『マツコ&有吉の怒り新党』で、僕も企画にかみ、〈まさかの感動回〉と評判になった『新・3大“悲運のエース”伊藤智仁の記録より記憶に残る投球』でした。トモさんにはそれまで数回取材した程度でしたが『あの番組、観ました?』と聞くと、『観た。凄くいい番組だったね』と言ってくれて。
番組では彼があの6月、いかに無理をしたかを多少劇的に演出していて、球数が180球を超えても替えない監督や、石川県立野球場でサヨナラ弾を放ち、奪三振数の新記録も阻んだ篠塚和典さんは完全に悪役だった(笑い)。でも篠塚さんはもちろん、野村さんにも悪意などなく、トモさん自身当時のことを全く後悔してないんです」
球速なんかどうでもよかった
ドラフトであの松井秀喜とも評価を二分した伊藤は京都出身。少年野球チームでは誰も彼の球を捕れず、花園高校時代は甲子園には縁がなかったものの、社会人3年目に先輩の永田晋一からスライダーを学んだことで才能が開花。バルセロナ五輪では3試合に先発して3勝し、奪三振27は、今も破られていない国際記録だ。こうして評価を高めた伊藤はプロ入りし、巨額の契約金を手にするが、面白いのは〈毎月、十数万円で生活していた人間ですから〉という金銭感覚だ。
「フツウに食べていければいいという元会社員らしい感覚はコーチを辞めた今もブレていないし、彼は一切ゲンを担がないんですよ。だったら1回でもダンベルを上げた方が自分にはお守りだと考える、いい意味の合理主義者。結果的に93年7月以降を棒に振り、96年に復活を遂げてからも右肩に3度もメスを入れていますが、そんな状況でも自ら設定したゴールまでの道筋を現実的に考えられる、クレバーさがあるんです」
そうした人間性を例えば古田は、〈執着する潔さ〉と表現。常人が期待しがちな葛藤や苦悩すら表に出さず、年俸88%ダウンを呑んでまで現役復帰に拘る潔さだ。
「つらいとか悔しいという言葉を引き出そうとしても、本人が悲壮感ゼロなんですよ。それこそ僕も彼に関して、『栄華を極めた人間の不運な転落劇』的な世間の目を感じていて、その点も聞いてみたら、彼は『えっ、俺ってそう思われてるの? 世間ってそんなにイジワルなの?』って(笑い)。
取材では合計約30時間テープを回し、毎回取材後は飲みに行ったんですけど、僕は彼が事ある毎に『俺はラッキーやから』と言うことに気が付いた。それからは悲運の男の自己評価はむしろ幸運だったという価値観の逆転に意識が移り、その点は古田さんにも『お、わかってるねえ』と褒めていただきました」
伝説の渦中を生きた男はどんな現実にも淡々と向き合い、リハビリ時代を支え合った仲間など、あらゆる出会いに感謝していた。
「実はヤクルトには〈リハビリの系譜〉とも言うべき伝統がある。荒木大輔が黙々と頑張る姿を岡林や伊藤が見、その姿を石井一久や館山や由規が見て、自分も必ず先輩たちのように復活できると思えたことは大きかったと思う。それは一線級ほど故障する負の歴史とも言える。でも彼らプロはリスクも織り込み済みで、だから故障とも共存する境地である〈異常の正常〉を探るべくベストを尽くした。
それこそ03年10月25日、彼が投じた109㌔のスローボールに、観客は『もう復活を望んではいけないんだ』と悟り、不格好を
生涯成績、37勝27敗25S。その“並み以下”の数字が全てだと言い切れる人の、常人には計り知れない強さ、潔さを、打ちのめされるように記す長谷川氏。まさに語りたくなる投手は
□●構成/橋本紀子
●撮影/国府田利光
(週刊ポスト 2017年12.1号より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/06/21)