芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第46回】意外な名作を楽しもう

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第46回目は、松本清張『或る「小倉日記」伝』について。森鴎外の日記をめぐる物語を解説します。

【今回の作品】
松本清張或る「小倉日記」伝』 森鴎外の日記をめぐる物語

森鴎外の日記をめぐる物語、松本清張『或る「小倉日記」伝』について

1952年下半期の選考会で何が起こったのか。長い芥川賞の歴史の中でも、この選考結果ほど不思議で、異様で、ありえない、という感じがするものは他にないでしょう。受賞者がのちに剣豪小説の大家となる五味康祐と、社会派ミステリーの大家となる松本清張ですから、びっくりするのも当然です。作家の中には、純文学から出発して、プロとして活動するうちに、大衆小説の方に転身するという人も、とくに珍しいわけではないのですが、ここで芥川賞を受賞した二つの作品は、どう見ても純文学ではありません。五味康祐の『喪神』は剣豪小説そのものですし、松本清張の『或る「小倉日記」伝』もミステリーとはいえないにしても、実録小説とか、そんな感じの作品で、少なくとも純文学とはまったく違うタッチの作品です。

どうもこの時期の選考会には、純文学と大衆小説の間に、それほどかっちりとした線引きがなかったのだろうと思われます。また文芸雑誌にも、そんな線引きはなかったのではないでしょうか。なぜかというと、この二作品の初出が、『喪神』は『新潮』、『或る「小倉日記」伝』は『三田文学』と、こちらはまぎれもなく純文学の文芸誌だからです。おそらく両雑誌とも、新人、あるいは新鋭の特集みたいなもので、将来性のある書き手に依頼をしたものと思われます。当時はクラブ雑誌と呼ばれる低俗な雑誌も盛んに読まれていました。そこに載っている作品を大衆小説と呼び、たとえば『小説新潮』や『オール読物』には、川端康成谷崎潤一郎が書いていたので、このあたりまでは文学だと考えられていたのかもしれません。それにしても、芥川賞は直木賞とセットでスタートしたのですから、この二作がどうして直木賞の候補に回らなかったのか、まさにミステリーです。

ぼくは高校生の頃から作家志望でしたので、たとえば文藝春秋が出している『文芸手帖』の芥川賞のリストを眺めて、いつか自分の名もこの中に刻みたいと秘かに夢をもっていました。すでにその当時、五味康祐も松本清張も大作家になっていましたから、なぜこの二人が芥川賞なのか不思議に思っていました。

魅力的な登場人物とエピソード

前置きが長くなりましたが、この回には、安岡章太郎吉行淳之介小島信夫といった、のちに純文学の大家となる人々の作品も候補になっていて、この二作品のために落選しているのです。で、この回の選評を読んでみたのですが、どうも誰も受賞作を褒めていないようです。むしろ落ちた作品を熱心に褒めている人がいたりする。まったく不可解な選考会というべきですが、この松本清張の『或る「小倉日記」伝』という作品のタイトルは、芥川賞のリストを見る度に、どんな作品だろうと興味をもっていました。これが、森鴎外が小倉にいた頃の日記をめぐる物語だということは知っていたので、行方不明になっていた日記が発見されるまでのエピソードなのかなと思い込んでいました。

で、この作品を読んでみたのです。感想を言えば、予想外に面白かった。というか、これは知られざる名作ではないかと思いました。この作品は確かに森鴎外の行方不明になった小倉日記が出てくるのですが、日記が行方不明なら、当時の生存者を捜し出して、当時の鴎外の実像を探れば、意味のある資料になるのではないかと奮闘する人が主人公です。

この主人公がユニークです。生まれつきの障害のために、足が不自由なだけでなく、顔面の半分にも麻痺があり、言葉が不自由で、外見だけを見ると知能も劣っているように見えるのですが、実は頭脳は明晰で文学好きという人物なのです。外見のせいで仕事にも恵まれなかったのですが、文学好きの地元の医者に見いだされて手伝いをしているうちに、鴎外の小倉日記のことを知ります。そして、当時の鴎外を知る生存者を捜し出すことを、自分の生き甲斐のように思って大変な苦労をして歩き回るという話です。ちょっと読むと、珍しい話を実録的に記録したもの、という感じしかしないのですが、この主人公の設定だけでなく、美人の母親も、誠実な親友も、パトロンとなる地元名士の医者も、とにかく登場人物がすべて魅力的です。実録ふうの語り口に見せて、この作品は何か大切なものを読者に伝えようとしているのだということがわかってきます。

松本清張ならではの仕掛け

この時代の社会の面白さというものも伝わってきますし、地方にも文化を愛する人がいるのだなということもわかります。昔の地方都市にはゆとりがあり、本物の文化があったのだなと感じます。そして、主人公のいくぶんミステリアスな個性が、いきいきと描かれているところも魅力的です。読んでいる途中で、あ、これはすごい文学だ、とぼくは感じました。

改めて読み返すと、実録ふうに見せた地味な語り口の中から、次々と意外性のあるエピソードが出てくるところは、実に計算された展開ですし、この主人公の足どりを追っていれば、森鴎外の足どりも見えてきて、行方不明になった日記の内容までが推理できそうな気がしてきます。その点では、この作品はまさにミステリーと言ってもいいのです。

しかも、作品の時代設定は少し過去に設定されています。松本清張がこの作品を書いている時点では、鴎外の小倉日記は発見されているのですね。作者はその内容を熟知した上で、この作品を書いている。それはすごい仕掛けです。歴史的事実をひっくり返してミステリーに仕立て上げるという、のちの松本清張の手法が、この作品でも見事に仕掛けられているのです。その意味でも、この作品はなかなかにすごい作品なのではないかと思います。

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初出:P+D MAGAZINE(2018/06/21)

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