芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第57回】文学的な香りとは何か
芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第57回目は、小野正嗣『九年前の祈り』について。苦境にあえぐ母子を幻想的な手法で描いた名作を解説します。
【今回の作品】
小野正嗣『九年前の祈り』 苦境にあえぐ母子を幻想的な手法で描く
苦境にあえぐ母子を幻想的な手法で描いた、小野正嗣『九年前の祈り』について
この作品は比較的新しいものです。ピースの又吉直樹さんのその前の回の芥川賞といえば、新しさがわかります。でも、又吉さんの作品で初めて文学というものに触れ、芥川賞というものに興味をもった人が、その前の回の作品はどんなものかと思ってこの作品を読み始めると、まるで迷宮に踏み込んだような目まいを覚えることになるのではないかと思われます。
笙野頼子や、円城塔のような、見るからに難解な作品ではありません。磯崎憲一郎や、朝吹真理子のような、ちょっと変だな、というものでもありません。わりとふつうに、リアリズムの作品として読んでいけるのですが、途中から何か奇妙な領域に引きずりこまれるというような感じの不思議な作品です。
知的で幻想的な作風
書き方がヨーロッパふうですね。日本の作品だと、リアリズムで書かれた私小説か社会小説、そうでなければアンチロマンの前衛小説、といった整理ができるのですが、ヨーロッパの作品には、それとは別の、高踏的な作風といったものがあります。高踏的というのは、お高くとまっている、といったニュアンスなのですが。
ふつうのことを即物的に表現するのではなく、知的に言い換える。日本でそういうことをやると、キザでいやみなやつということになってしまうのですが、それは日本という国が伝統が浅く、階級というものがほとんどないよい意味でリベラルな国だからです。ヨーロッパの場合は、オペラと伝統的な文学を子どもの頃に親の世代から受け継いだ人たちが、ごく自然に伝統文化と文学に親しむといったケースがあります。そういう上流階級の人と、サッカーにしか興味のない下流の人は、はっきりと階層化されているのです。
日本は70年前に戦争に負けて以後、階級というものはなくなりました。ですから労働者階級の人でも、とんでもない田舎の人でも、大学に入り、大学院に進んで留学でもすれば、オペラと伝統文学を受け継いだヨーロッパのインテリ階級と同じような発想で小説を書くことができるのです。
そこがこの作品のユニークなところです。一見するとリアリズムで書かれていて、九州の田舎町の出身だけれども、カナダ人と結婚してハーフの子どもを産み、夫に逃げられて故郷の田舎に帰ってきた子連れの女が、閉鎖的な田舎社会の中で生きづらい状況におかれるという、ありふれたリアルな状況が描かれているのですが、文体がユニークで、そういうリアルな状況がストレートに語られてはいないのです。
前衛的というか、アンチロマンというか、あえていえばわざと抽象的に書くことで、リアルなものがもっている腐臭のようなものを排除した、知的で幻想的な作風といったらいいでしょうか。ここには文学的な香りといったものがあります。こういう香りには好き嫌いがあるのかもしれませんが、ぼくはなかなかいいセンスだと思います。この香りによって、テーマのなまなましさが、ほどよく緩和されている。それが文学の功績だと思います。
「九年前」によって「いま」が相対化される
物語は故郷に帰ってきたヒロインの親とのやりとりや、田舎では差別されがちなハーフであり、しかも精神的に障害を負っているらしい子どもをかかえ、困難な状況に置かれたヒロインの姿をリアルに提示していくストーリーの流れと、九年前のカナダ旅行での体験が、並行的に語られます。
しかも「いま」の時間の流れと、「九年前」の時間の流れとが、一行アキとかそういう明確な区切りもなく、わざと錯綜するように並行的に展開されることにより、いわば九年前の記憶の中のイメージと、目の前の現実とが、ないまぜにされ、そのことによって「いま」の現実が相対化されるという、不思議な効果をもった作品だといっていいでしょう。
これは文学の手法として高等技術です。こういう作風に慣れていない一般の読者は混乱を起こすでしょう。とくに又吉さんのような、わかりやすいリアリズム小説を読んで、純文学というのもいいものだな、と思った読者にとっては、これは何だかよくわからないものとして受け止められ、やっぱり文学は難しい、ということになってしまうのかもしれません。
文学というのは多様なのですし、とても幅が広く奥行きも深いものなのです。太宰治や又吉直樹は、その最も表層の、わかりやすい部分だといっていいでしょう。一見わかりにくくても、じわじわとその良さが伝わってくるというような作品もあるのですし、この作品よりももっと難解な、何が書いてあるのかサッパリわからないというものもある、それが文学なのです。
でもこの作品は、サッパリわからないというものではありません。基本的にはリアリズムで書かれていて、何が起こっているかは正確にわかります。ただヒロインの置かれている状況は、都会で豊かな温かい家庭を築いている人にとっては、何とも生きづらい状況だと思います。しかしこの作品は、その生きづらい状況を、九年前にカナダに行った時の同行者で、不幸な境遇にあったある女性の祈りの姿と、「いま」のヒロインの思いとを、文学的な手法で重ね合わせることで、ある種の「救い」を感じさせる、文学ならではの名作だと思います。
表面的なわかりにくさに、途中で読むのをやめたりしないで、じっくりと味わっていただきたい作品です。
初出:P+D MAGAZINE(2018/12/06)