【著者インタビュー】石井公二『片手袋研究入門 小さな落としものから読み解く都市と人』/Gloveには“love”が入ってるんだぜ

路上のニッチなアイテム「片手袋」の5000枚もの写真と、15年にわたる研究成果を丁寧にまとめた話題書。ページの端々から「好き」が伝わり、読んでいるこちらまで愉快になれる一冊です。

【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】

15年間で約5000枚を撮影! 路上に取り残された存在から都市や人間のあり方にまで著者の妄想が広がる奇書

『片手袋研究入門 小さな落としものから読み解く都市と人』

実業之日本社
2400円+税
装丁/リボ真佑(TAGGY DESIGN)

石井公二

●いしい・こうじ 1980年東京生まれ。玉川大学文学部芸術学科卒。都内の飲食店主だが、「本業と関係ない自分をもう1人持つ方が僕の場合はバランスがいいんです」。04年、携帯電話で記念すべき1枚目(容量は4KB)を撮って以来、片手袋研究家として活動。13年に神戸ビエンナーレ「アートインコンテナ国際展」に入選し、奨励賞を受賞。年始には『マツコの知らない世界』で宇多田ヒカルが「片手袋」について言及し、本書にも注目が集まる。178㌢、70㌔、A型。

規則や利害関係だらけの街に誰の手も及ばない境界があるだけでホッとする

 単なるゴミのようでも、異界の入口のようでもある、その名もなき存在を、〈片手袋=寒い時期なんかによく町に落ちている片方だけの手袋〉と定義することから、石井公二氏は初著書『片手袋研究入門』を始めている。
〈都市に取り残された小さき者たち〉〈私はそれを見過ごすことができなかった〉
「ちょうどカメラ付き携帯電話が出始めた04年頃です。コンビニに向かう途中、ふと外に落ちていた片方だけの〈黄色い軍手〉にカメラを向けた僕は、撮るに値する対象とついに出会えたような衝撃を覚えたのです。しかもその直後、今度は白い軍手が落ちていたんです。あの点が線になる、、、、、、感覚と〈駄目押しのような多幸感〉に、人生を狂わされたようなものです(笑い)」
 本書は以来、5000枚の片手袋を撮影した氏の15年にわたる研究成果をまとめたもの。写真や図を多用したフルカラーの丁寧な作りやシャレの利いた解説文等、本の端々から好き、、が溢れ、読んでいるこちらまで愉快になれる1冊だ。それこそ〈Gloveには“love”が入ってるんだぜ〉とあるように、愛や多幸感は伝染する?

 幼い頃、ウクライナ民話『てぶくろ』に魅せられ、卒論のテーマは路上観察の開祖・赤瀬川原平氏の作家論と、素養も方法論も整い過ぎるほど整っていた。
「元々片手袋のことは写メに撮る前から気になってはいたんです。あれだけよく見かけるのに、なぜかみんなにスルーされる、路上のニッチなアイテムとして。
 その片手袋を〈重作業類〉〈ゴム手袋類〉〈ファッション・防寒類〉〈お子様類〉とまずは目的や種類で分類し、さらに発見場所や状況で分けて体系化する本書の方法論は赤瀬川さんが源流にあるし、僕は釣り好きなので魚類の分類も参考にしました。そして(1)出会ったら必ず撮影する(2)絶対触らない(3)博愛主義(4)わざわざ探しに行かないというルールのもと、とにかくこの活動を真剣にやってみようと誓いを立てたんです。でもそれからは映画を観ていても片手袋が出てくるかどうか気になったり、妻に呆れられたり、片手袋から世の中を見るという視座を手に入れた半面、失ったものも少なくありません(笑い)」
 中でも出色は〈放置型〉〈介入型〉という分類だ。本書では道などに無残に取り残された片手袋を放置型、それを見かねた人がガードレールや花壇の上に避難させた片手袋を介入型と呼び、後者を人の善意が可視化された存在と定義している。
「放置型が『落とす』や『捨てる』から生まれるとすれば、介入型は『拾う』や『見つけやすくする』という良心の動詞から生まれています。人間が介在してる分、わざわざジップロックに入れて電柱にくくられていたり掲示板に貼り付けられていたり、面白いものも多い。
 ただ、よくよく考えると〈見ず知らずの人が落とした片手袋だから、、、拾ってあげられるのかもしれないし、介入型の片手袋が何か月も同じ場所にあるのを見ると、『善意は届かない』ということの象徴にも思えてくる。逆に言うと相手に届こうが届くまいが、ついつい善意を発揮してしまうのが人間なのだ、とも考えられる。とにかく片手袋を手掛かりに人とは? 町とは? といくらでも考えを深めていけるのが、この研究のやめられないところなんです」

無駄なものなどこの世にはない

 そんな石井氏の周囲に参集した〈街角狸〉マニアやゴムホース愛好家といった同業他社(?)が見ている景色は、視点次第で違った。
「要は僕の片手袋の写真を、マンホール目線で見る人もいれば鉄塔目線で見る人もいて、一つの空間に多様な視線や位相が並行的に共存するのも、路上の面白さであり包容力だと思うんです。
 しかも昔は友達に見せる程度だったのが、今はカメラ自体が通信機能を持ち、各々が捉えた世界を国際的に共有することもできる。そもそも片手袋自体、誰が落としたか分からない匿名性の文化ですから、片手袋研究家である僕の名前すら知らなくても、『#片手袋』で誰もが写真投稿できる今のフラットな開放空間こそ、本来という感じもします」
 その落とし物が誰のものでもない路上に落ちているからこそ、素敵なのだと。
「厳密には道にも手袋にも持主はいます。ですが権利がどうのコンプライアンスがどうのと何かとうるさい昨今、ギリギリ誰のものでもない余白があるとしたら、僕は路上の片手袋だと思うんですね。都会の行間、またはエアポケットと言ってもいい。特に今の東京みたいに規則や利害関係でがんじがらめの街にまだ誰の手も及ばない境界があるというだけで、何だかホッとします。
 たぶんSNSで毎日のように炎上騒ぎが起きるのも、みんな互いの背景が見えすぎて、違いばかり探してるから。その違いを片手袋の匿名性は軽く超えていける部分があって、他人だから拾ってあげられるとか優しくなれるとか、心の余裕をギリギリ繋ぎとめる媒体として、僕は片手袋を見ているのかもしれません」
 それは故郷に失望したくない東京っ子の希望であり、都会にかろうじて残された物心両面の隙間でもあった。自身、本書でも何度か片手袋の定義を書き換えており、〈片手袋とは我々が町で出会う片方だけの手袋のことではなく、恐らく人類が手袋を装着し始めてから延々と繰り返してきた「落ちたり、踏まれたり、轢かれたり、拾われたり、捨てられたり、なくなったりと変化し続ける運動」のことなのではないか〉、はたまた〈片手袋=人間の生活や都市の変化、およびそれらの記憶や予兆〉など、より観念的になっていくのが面白い。
「若くして『落語とは業の肯定である』と言った談志師匠が後々、『落語は江戸の風である』と言い出すように、経験を重ねるほど答えが抽象化していくんです。
 ただそれもやってみなければわからなかったこと。よく『そこまで熱中できるものがあっていいですね』という人がいますが、人生を豊かにしよう、とか考えて研究に取り組んでるわけではないんです。むしろ目的や見返りを求めないのがよかったんだろうし、無駄なものなんてこの世に何一つないというのが、現段階での結論なんです」
 もしこれが小学生の自由研究だったら、さぞ先生に褒められることだろう。
「あ、それはよく言われます。自由研究が永遠に終わらない大人です(笑い)」
 いや、むしろ誰に褒められずとも大真面目になれるから、大人は楽しいのだ。

●構成/橋本紀子
●撮影/田中麻以

(週刊ポスト 2020年1.31号より)

初出:P+D MAGAZINE(2020/06/23)

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