【三島由紀夫賞受賞】小説家・乗代雄介のおすすめ作品3選
芥川賞候補作となった『旅する練習』『最高の任務』などの代表作を持ち、いま最も注目されている若手作家のひとりである乗代雄介。そのおすすめ作品のあらすじと読みどころをご紹介します。
一昨年、『最高の任務』が第162回芥川賞の候補作となり、最新作『旅する練習』も第164回芥川賞の候補入りをするとともに第34回三島由紀夫賞を受賞するなど、いま注目を集めている小説家・
乗代はインターネット上での創作活動を中学時代から15年以上に渡って続けており、『夫のちんぽが入らない』の代表作を持つこだまなど、インターネットで2010年代に静かに人気を集めていた文筆家らが発行した伝説的な同人誌『なし水』にも参加していることで知られています。また、乗代が書き継いできたブログ、『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』(※現在も更新中)は2020年に書籍化もされ、600ページ超えというその分厚さでも話題を呼びました。
乗代は、生活やできごとを記録することに、熱狂的とも呼べるほどの情熱を注ぎつづけている作家です。今回はそんな乗代のおすすめの小説を3作品ご紹介し、読みどころを解説していきます。
“退屈”なほど執拗な記述が光るデビュー作、『十七八より』
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乗代雄介は2015年、この『十七八より』で第58回群像新人文学賞を受賞しデビューしました。本作は、語り手の
過去を振り返る時、自分のことを「あの少女」と呼ぶことになる。叔母はそういう予言を与えた。そのとき彼女はまだ生きていて、だから今はもういない。親族中を三代さかのぼっても見つからない癌だった。これは、人どもが様々な意味で頻々と出入りしている特別病室で姪に最期の言葉を告げようという時、他の親族を冷え冷えした廊下に追いやらざるを得なかった二人の関係にまつわる記述である。少女は痩せ細って生気の消えた叔母に顔を寄せ、過剰に清潔な布団のにおいを一息吸いこんだが、今しもその繊維の一本が脳の隙間に湿っているように思えてならない。もしも大脳皮質にティッシュをあてがい思いきりかむことができるなら、今日の人類はもう少し気持ちの良い文明を築き上げていたはずだ。
この書き出しの文章を一読しただけで、複雑でまどろっこしい文体に、読みづらさ、馴染めなさを感じる人は少なくないはずです。本作は景子による一人称的な回想という形をとっていますが、彼女は物語の序盤で、
この一連の記述にあたってかなり退屈な部分もはしょらずに書くことにしているので、読み返せば誰しも、たちどころに惰性が跋扈する姿を見ることになるだろう。しかし、この愚行は偏に、叔母から目こぼしを頂戴するために一計を案じた結果なのである。
と言い訳のような宣言をしています。つまり、この記述の“退屈さ”は意図的なものであるという注釈を自らおこなっているのです。彼女の回想の中心に常にいるのは、上記の引用部にも登場する“叔母”・ゆき江です。景子の祖父が営む眼科病院の看護助手として長年働いてきたゆき江は読書家で、なにを語るにも過去に読んだあらゆる書物からの引用を交えずにはいられない景子の、唯一の理解者と言ってもよい人物です。
本作で綴られる景子の学校生活や家庭生活は、言ってしまえば最後まではっきりとした筋を持ちません。彼女の宣言どおり、“惰性が跋扈”するかのようにいくつかのエピソードが冗長とも呼ぶべき長さで語られ、特に他のエピソードとは関係せず、独立したものとして帰結していきます。しかし本作では、実際に起きたできごとのうちからなにかひとつを語り手が恣意的に抜き出さず、結果的に書かれたものをただ書かれたものとして肯定しようとする姿勢が貫かれています。この姿勢は、著者の以降の作品においても徹底されていますが、デビュー作である本作には特にその色が強く現れています。
過去を記録しつづけることの意味とは?──『最高の任務』
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『最高の任務』は2019年に発表された作品です。乗代は本作で、第162回芥川賞にノミネートされました。
本作の語り手である「私」は『十七八より』と同じ、阿佐美景子です。本作のなかでは、景子は叔母のゆき江に薦められて、小学校の頃から日記をつけていたことが明かされています。景子は大学の卒業式直後、行き先も目的も告げられないまま母・父・弟に家族旅行に連れ出されるのですが、その旅行の回想と日記内の回想というふたつの記憶を通じて、ゆき江との思い出が多層的に書かれていきます。
景子は、物事をどこか斜めから見ているようなキャラクターです。ゆき江から日記帳をもらったばかりの頃、景子はアンネ・フランクやアナイス・ニンよろしく日記のなかの自分を「あなた」と擬人化して呼ぶことに恥ずかしさを感じ、
だから私は、日記を書く時はいつも「あんた、誰?」から始めることにする。
とルールを定めています。そして数年後、ゆき江と共に行った旅行先の箱根で書かれた日記には、このような記述があります。
スパイという職業が私の興味を惹いてやまないのは、最高の任務が、あらゆる任務および活動の後ろに隠され続けているように思われるからだ。最高の任務が念頭に置いている任務であるかはわからないが、その一環であることは確かだという確信の中で動き続けること。「あんた、何者?」と問われ続ける緊張の中で死ぬまでを生きること。それは、自分に向かって「あんた、何者?」と絶えず問い続けることと同じになる。
記憶している限りのことを執拗なまでに記録するという姿勢は、『十七八より』に続いて本作でも貫かれています。それはまさに、記憶のなかの叔母や旅行先の風景を、さまざまな書物の引用を用いながら隅々まで描写することこそが、景子にとっての“最高の任務”であると言っているかのようです。景子は、旅行先で出会う風景や土地の歴史にまつわる描写を自分の心象風景の代弁としてではなく、独立したものとして綴ろうと苦心しています。
「書くこと」「記録すること」を主題に置きながらも、景子とゆき江、景子と家族たちの強い絆や、チャーミングなキャラクター造形も本作の大きな魅力であることは間違いありません。ほっと心が温まるような読後感を味わうことのできる1作です。
小説とサッカーのふたつの“練習”が輝く感動作、『旅する練習』
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『旅する練習』は、2020年に発表された作品です。本作は第164回芥川賞の候補作となり、第34回三島由紀夫賞を受賞しています。
本作は、小説家の叔父とサッカー好きの小学6年生の姪・
三月十日 7:53~8:02
東の端から見る手賀沼は広い。枯れたガマがまばらに立つ辺りに、コガモとオオバンが合わせて十羽ほど漂っている。少しけむるような空気の中、オオバンの黒い体はよく目につく。ふいに二羽が重なると、そのくちばしと額の白が、黒の中にくっきりと見出された。(中略)
100
三月十日 10:20~10:46
消波ブロックに何羽もとまったカワウには、四本の趾の間に立派な水かきがついており、ななめになったブロックの突端に黒くかぶさっている。長い骨が黒いゴム手袋をはめているかのように突っ張って白っぽく浮き上がり、しっかりとブロックをつかんでいるのがわかった。(中略)
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はじめは淡々と風景を描写し、文末に亜美のリフティングの回数を記録するというスタイルだった語り手の文体は、旅の道中でのできごとや亜美自身が春休みの宿題としてつけていた日記の挿入などを経て、徐々に変化していきます。
私しか見なかったことを先々へ残すことに、私は──少しあせっているかも知れないが──本気である。そのために一人で口を噤みながら練習足らずの言葉をあれこれ尽くしているというのに、そのために本当に必要とするのはあらゆる意味で無垢で迷信深いお喋りな人間たちだという事実が、また私をあせらせる。
本当に永らく自分を救い続けるのは、このような、迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。
叔父は、“迂闊な感動”をそのまま文章として書き付けてしまわないよう細心の注意を払いながらも、内からこみ上げてくる感情を隠しきれないかのようです。そこには、亜美がのちに辿る運命をすでに知っている現在の叔父の気持ちの揺らぎが反映されています。本作の最後にはこれまでの乗代作品から見れば異質とも思えるほど大きなカタルシスが待っていますが、「書くこと」「記録すること」の意味を考え抜くというテーマは本作でも一貫しています。
おわりに
乗代はかつて、“ブログを書くこと”というテーマで寄稿したインターネット上の文章のなかで、自分にとってブログを書くことは自分のための文章の練習の場で、ブログを更新することは生きることとほとんど同義だった、と語っています。
それより夢中になれるものはなく、人生において最も優先すべきは「書くこと」でした。そして、それは長らく「ブログを更新すること」と同義だったのです。その積み重ねが一応は小説家という現状につながって、その結果、書くことはブログから少し離れましたが、嬉しいことに、過去の記事がまとまって本になりました。
(──週刊はてなブログ『「ブログ更新のため」に生きるとは?一人きりで15年以上書き続けたブログが書籍化されるまで』より)
ブログを更新するために生きていたと言い切る彼は、日常に潜むなにげない輝きを、輝いていないその他のほとんどの瞬間も含めて丹念に書き込むという一貫した姿勢を貫いたままで小説家になりました。乗代の作品のなかの「書かれていること」の過剰さはそのまま、読み手の読みかたや作品の解釈の幅を広げ、読書体験を豊かなものにします。芥川賞受賞も大きく期待され、今後ますます目が離せない作家です。
初出:P+D MAGAZINE(2021/06/16)