【『たべもの芳名録』ほか】小説家・随筆家 神吉拓郎のおすすめ作品

『たべもの芳名録』といった名作エッセイのほか、都会に暮らす人々の生活の背景にあるささやかなドラマや闇に焦点を当てた名作小説を数多く生み出した作家・神吉拓郎。初めて神吉拓郎を読む方に向けて、特におすすめの4作品をご紹介します。

小説家、放送作家、随筆家、俳人など多岐にわたる顔を持ち、昭和期に活躍した文人・神吉拓郎かんきたくろう。その作風は、軽やかなエッセイから都市生活の哀愁を描いた技巧的な短編、日常の些事を鮮やかに捉える俳句まで、実にさまざまです。特に短編の名手として知られる神吉は大変な美食家でもあり、“食”にまつわる描写は右に出る者がいないほどです。

今回は、第90回直木賞を受賞した名作短編集『私生活』や、食べ物にまつわる描写の真骨頂を味わうことができる『たべもの芳名録』などを始め、神吉拓郎の魅力が存分に味わえるおすすめの本を4作品ご紹介します。

『曲り角』


出典:https://www.shogakukan.co.jp/digital/093524340000d0000000

『曲り角』は、そのタイトル通り、人生の“曲り角”を迎えた中高年たちの姿を描く短編集です。

収録作のひとつである『小指』は、見合いの仲介をするのが好きな妻に言われるがまま、部下の井口という若者の見合いに付き合う中年男性・佐藤の心境を綴ります。佐藤は井口の見合い相手の女性をひと目見て“感じの明るい娘”で“悪くない”と思いましたが、井口はどうも、彼女との結婚に悩んでいるようでした。その理由を問うと、井口はこう答えます。

「これは、第一印象だけだから、よく解らないんですけどね」
「うん」
「ちょっと、派手過ぎるような気がするんですよ」
「性質がか。よく解るな」
「そういわれると困っちゃうんですが、ぼくの知ってる女性たちにくらべると、着るものも趣味も、ずっと贅沢です。遊びかたも贅沢なようです」

詳しく聞くと、井口は自分の母親が上昇志向の強い女性で、下級官吏だった父を常に馬鹿にしていたことが忘れられず、勝ち気な女性をよいと思えない、という身の上を語ります。さらに井口は、「……あの小指に気がつきましたか」と佐藤に問いかけます。

「まあ、いわせて下さい。あのお母さんを何気なく見てたら、スプーンを持ってる指にも大きな指環がはまってて、随分高そうな指環だなあと思って、でも、そんなことはいいんです。そのスプーンの持ち方が可笑しくて、四本の指で持って、あまった小指をぴんと立ててるんです。それを見てたら、不意に可笑しくなっちゃって、娘の方を見たら、彼女の方も、小指をぴんと立てて……」
井口は、忍び笑いを洩らしながら、コーヒーのカップを取り上げて、その耳をつまんで、実演をやって見せた。

井口は結局、その“小指”が原因で見合いの話を断ることを決めるのです。

この『小指』のように、本書の収録作はどの作品もストーリー自体はほんのささやかなものでありながら、日常生活のなかのちょっとした違和感や世間とのずれ、惰性で日々を過ごしている自分への不信感など、登場人物の心の機微を細やかに描き出しています。上質な作品ばかりを味わうことができる短編集です。

『私生活』


出典:https://www.shogakukan.co.jp/books/09352384

『私生活』は、17の短編・掌編を収録した作品集です。神吉拓郎は1983年に、本作で第90回直木賞を受賞しました。収録作はどれも、都会の日常生活の裏側にひそむささやかなドラマや闇にスポットを当てています。

『鮭』は、喜久子という女性が主人公の掌編です。ひとり暮らしの彼女はある日、日課の買い物に出かけた商店街で、誰かに見られているような気配を感じます。さらに、家へ帰って夕食の準備をしていると、窓の外を人が通る影が見えます。

今頃誰だろうといぶかりながら、玄関へ出て行く。
ブザーが鳴った。
明りをつけると、格子戸の向うに誰かの立っている影が見えた。
戸をあけると、夫の清治だった。
喜久子が立ちすくんでいると、清治もしばらく押し黙っていたが、やがて、ひとつ頷いて、
「ああ」
といった。
喜久子には、言いたいことが山ほどあった。眠れない夜などに、夫ともし顔を合せたら、ああもいってやろう、こうもいってやりたいと、繰り返し考えていたことで、胸のうちははち切れそうになっていた。

喜久子の夫は、4年前に原因不明の失踪をしていたのでした。喜久子は突然の夫の帰宅に驚きますが、いざ彼の顔を見ると、「この人、ひどく疲れているようだ」と感じ、「ご飯、すんだんですか」とあまりに他愛のないことを聞いてしまいます。

食事はまだだという清治の言葉を聞き、喜久子は友人に宛てて書く予定だった手紙の返事を端に置いて、料理を始めます。狐につままれたような気持ちのなかで清治と食事をともにした喜久子は、夜中、布団に入って隣で清治の寝息を聞いているときに、ようやく感情が溢れてきて涙を流します。

清治は突然の帰宅からわずか3ヶ月後、病気であっけなく亡くなってしまうのですが、その頃になって喜久子は忘れていた手紙の返事をやっと書く気になります。喜久子は手紙の末尾ですこし迷って、

……四年も留守にしたあげく、ひょっこり帰って来て、そのまま死んでしまうなんて、……まるで鮭みたいに、一生懸命に帰って来たのね……

と綴るのです。タイトルの『鮭』という言葉がこの一節だけに登場するのが、神吉の筆の巧みさを感じさせます。

本書の作品はどれもごく短い物語ながらも、読後に思わず深いため息をついてしまうような、独特な余韻を残すものばかりです。一度に読み通すのではなく、一作ずつ、時間をかけて噛みしめるように読みたい作品集です。

『洋食セーヌ軒』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B0786FMZ3T/

『洋食セーヌ軒』は、“食”をテーマにした掌編集です。無性においしい牡蠣フライが食べたくなり、10年ぶりに小さな街の洋食屋に向かう男を描いた表題作のほか、全部で17の短編が収録されています。

本書の最大の魅力はなんと言っても、味や匂いが読み手にまで鮮明に伝わってきそうな食べ物の描写です。

たとえば、料理好きで美食家の男が、同僚の女に虹鱒のムニエルを作って振る舞う『ホーム・サイズの鱒』では、ムニエルの味がこんなふうに表現されます。

切り分けた魚肉を、フォークで口に運ぶと、アーモンドと焦げたバターの芳香が渾然として温かく鼻を擽り、唾液腺を刺激する。舌に乗せれば、ほどよく熱く、柔かく、噛むまでもなく滋味が口いっぱいに拡がって行く。
その余韻を堪能してから、冷たいワインで舌を洗い、また鱒に戻る。

また、表題作の『洋食セーヌ軒』に登場する牡蠣フライは、

かりっとした熱い衣の下から牡蠣の甘い汁がたっぷりとあふれ出て来る。それがレモンの香気や、刺激的なウースター・ソースの味と渾然として、口いっぱいにひろがる。思わず、目が細くなるようだ。
それが十年前の味と同じなのかどうか、よく解らないが、確かに鎌田好みの牡蠣フライの味であった。ラードの匂いが高く香ばしい。金茶色の、少し濃すぎる位の揚げ色は、もう数秒で揚げすぎという位の、きわどい手前で、上々の仕上がりになっている。それでいて、なかの牡蠣の粒は、まだ生命を残して、磯の香をいっぱいに湛えている。

と、読んでいるだけで思わず涎が出そうになるほどです。

本書の解説で、書評家の吉田伸子は、神吉拓郎の食べ物にまつわる描写を読んでいるときの幸福感は、テレビドラマ『孤独のグルメ』で、主人公の井之頭五郎が旺盛な食欲でもりもりとご飯を食べる姿を見ているときの気持ちに似ている、と語っています。そして、他の名店と比べたりいたずらに評価を下したりするわけではなく、目の前のおいしいものをただ素直においしいと称賛する神吉の姿勢には、“上から目線”がないのがよいと評します。

まさにその“上から目線”のなさ、素直に食べ物の味を捉えようとする品のよさは、本書に収録されている掌編すべてに共通する魅力です。

『たべもの芳名録』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B073QHH315/

『たべもの芳名録』は、神吉が1984年に発表した“食”にまつわるエッセイ集です。本書は食べ物エッセイの古典的名作として、時代を越えて幅広い読者に愛されている一作です。

『洋食セーヌ軒』と同じく、本書は端から端までおいしそうな食べ物の描写に溢れています。『鮓が来そうな日』というエッセイでは、そのタイトル通り、妻の友人が手作りのおすしを持って家にやってくる予感に心を躍らせる神吉の思いが綴られます。

昼すこし前に、電話が鳴って、立って行った家人が、なにやら話している。
まあ、いつもすみません、とか、お待ちしていますからと答える調子の明るさからすると、心待ちにしていたことが、いよいよ実現に向いつつあるらしい。
やがて、電話を終った家人がやってきて、
「北国さんから、おすしが届くそうよ」
と嬉々として報告する。
「もうじき、奥さんが、風呂敷包みを提げて、やってくるわ」
「そうだろう。昨夜から、ちゃんと匂ってたんだ」

彼女は北海道の産で、馴れずし五目ずしも上手につくる。
五目ずしにも大てい鮭が入る。
鮭、錦糸玉子、椎茸、たけのこ、針生姜、木の芽と、いろいろ入って、柿の葉で巻くような細かなことはしないけれど、量はたっぷり、味も保証つきだ。(中略)
すし、は歳時記では夏の季語になるのだが、すし恋しと思うこころは、春こそ強いような気がする。包みを開けば、色どり鮮やかに、到来のすし桶のなかは百花の撩乱するに似て、舌にも春、というやつである。

神吉はここから、日本全国の名物ずしの違いや祖母が作ってくれた思い出のすしのエピソードに至るまで、すしにまつわる話を豊富な知識とすばらしい描写力で展開していきます。

「ものを喰いに行く楽しみの大部分は、予想ないし想像というやつである」と神吉は語ります。

やがて対面する筈の御馳走に対して、あれこれと想像し、期待し、わくわくするのは、最高の前菜であって、これを抜きにして御馳走というのは成り立たない。

この言葉に思わず大きく頷いてしまう食好きの方は、多いのではないでしょうか。本書はまさに、何かを食べる前に“あれこれと想像し、期待し、わくわくする”ときの気持ちを追体験させてくれるような1冊です。

おわりに

都会的で洗練された、それでいて気取らない文体で綴られるささやかなエピソードの奥深さが、神吉拓郎の作品の魅力と言えます。今回は、技巧的で味わい深い短編と“食”の描写を楽しめる作品を中心にご紹介しましたが、大のラグビー好きで知られていた神吉は、ラグビーに関するエッセイや青春小説も多く残しています。それらも、爽やかで健康的な読後感を味わえるものばかりです。

どの作品もライトに読めるにも関わらず、一筋縄ではいかない人間の心の妙を巧みに表現する筆致は、まさに“名手”と呼ぶにふさわしいものです。神吉の作品には短いものが多いので、気になった本からぜひ気軽に手を伸ばしてみてください。

初出:P+D MAGAZINE(2022/03/03)

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