◎編集者コラム◎ 『ブレグジットの日に少女は死んだ』イライザ・クラーク 訳/満園真木
◎編集者コラム◎
『ブレグジットの日に少女は死んだ』イライザ・クラーク 訳/満園真木
質問があります。この本の著者はイライザ・クラークとされています。
ならば最後のカレリへの追及のインタビューを補足でつけたのはクラークだとしても、それ以外の記述、つまり本文はすべてカレリが書いているのでしょうか。ならばクラークは著者ではなく、編者、と記すべきと思うのですが。
それと、本書がいったんは販売中止・回収されたとの経緯を記した前書きのような短い記述(おことわり)を書いた主体は、今回文庫を出版する小学館ですか? あるいはクラークですか? あるいはイギリスの出版社でしょうか?森
こんなメールが解説原稿の依頼をした映画監督・作家の森達也さんから届いたのは、ゲラをお送りして間もなくのこと。
思わず、自分の説明能力の無さに頭を抱えました。
依頼をする際に「海辺の過疎地で起きた少女殺人事件を取材したジャーナリストによるノンフィクションを作中作とし、その発表後に起きた本の回収や再版を描いた疑似ノンフィクション形式のクライムノヴェルです」と書き添えたのですが、確かに、これではわかりにくかったかも……。
そうなんです。この『ブレグジットの日に少女は死んだ』(イライザ・クラーク著、満園真木訳)は、これまで私が編集したなかで内容を説明するのがもっとも難しい小説でした。カバーやウェブに掲載するあらすじ、宣伝物のキャッチコピー、カバービジュアルの方向性に至るまでこんなに悩むとは。ある意味、編集者泣かせの小説と言えるかも。
とはいえ、実際に読むとまったく難しくないのでご安心を。冒頭のトルーマン・カポーティの引用句から惹き込まれ、普通の十代少女たちの敵意が肥大化していく恐ろしさに震え、結末が気になって一気読み。読後には、著者に騙されそうになった自分に地団駄を踏みそうになりつつ、著者から投げかけられた「問い」に自分事としてドキリとさせられる。そんな、作家デビュー2作目とは思えない規格外の小説です。
森さんには、こんな返信をしました。
本作の構造がわかりにくくて申し訳ありません。
まず、この小説『ブレグジットの日に少女は死んだ』の著者はイライザ・クラークであり、本作自体、全編が完全なフィクションです。
ジャーナリスト「カレリ」は、この小説の中の架空の登場人物であり、作中作(本書と同題の少女リンチ殺害事件を描いたノンフィクション本)の著者という設定で、イライザ・クラークが作り出したキャラクターです。
この「ノンフィクション本」も、「カレリ」が書いたという体裁をとっていますが、要はイライザ・クラークによる創作です。
なので、最後のインタビューもイライザ・クラークによる創作で、インタビュー記事の体裁をとった本小説の最終章となります。
冒頭のことわりも、もちろんイライザ・クラークによる「ことわり書き」の体裁を取ったフィクションです。
本作は言うなればマトリョーシカのように、小説の中に架空のノンフィクション作品をまるごと挿入しており、その架空のノンフィクションの著者の捏造疑惑の顛末(これも架空)がマトリョーシカの外側、という構造になっていて、つまり『ブレグジットの日に少女は死んだ』という作品すべてはイライザ・クラークによる創作です。
くり返しになりますが、冒頭部分も最終章もすべてイライザ・クラークによる創作の一部で、著者や出版社による本当のことわり書きではありません。
「わかっていただけただろうか……?」と緊張して解説原稿を待ち続け、1か月あまりが経った頃、森さんから原稿が届きました。
ちなみに私が解説を森さんにお願いしたいと思った理由はふたつです。
ひとつは、本作を通して問いかけられるノンフィクションの在り方や受け止められ方について深掘りできるのは、ドキュメンタリーの主観と客観について考察し作品として発信し続けている森さんをおいて他にいない、と思ったこと。
そしてもうひとつは、作中作の少女暴行殺人事件の背景を、森さんの監督作『福田村事件』にどこか重ねてしまったことです。
そんな一方的な思いで依頼したものの、森さんにちゃんと伝わっているだろうか……と緊張しながら原稿を読み始めました。
すごい……! もう、脱帽です。ご自身の作品『ドキュメンタリーは噓をつく』の経験や、私とのメールのやりとりまでも織り交ぜての、作品の核心を突きまくる解説にガッツポーズさえ出そうになりました。もしかしたら、この邦訳版に限って言えばマトリョーシカの一番外側は、森さんの解説かもしれません。
ぜひ本書をお手にとって、まるごと1冊をお楽しみください。そして森さんが「すっかり騙された」という本作の凄みを感じて頂けたら嬉しいです。
──『ブレグジットの日に少女は死んだ』担当者より