芥川龍之介没後90年。その生涯に迫る。

1927年7月、日本を代表する文豪のひとりである芥川龍之介がこの世を去りました。『羅生門』や『鼻』などをはじめとする数々の作品を発表した芥川の素顔とはどのようなものだったのでしょうか。芥川の生涯に注目し、解説します。

2017年7月、日本を代表する文豪のひとり、芥川龍之介が没後90年を迎えました。芥川は『羅生門』や『芋粥』をはじめとした、古典を題材にしたものから、『蜘蛛の糸』など児童に向けた作品まで幅広い作品を残しており、国語の授業で読んだことがある方も少なくないはず。

芥川は友人たちと同人雑誌を出版し、その創刊号に掲載した『鼻』が夏目漱石から絶賛を受けました。その後、新聞社に入社。意欲的に作品を発表し続けるものの、1927年7月24日に「将来に対するただぼんやりした不安」という理由から服毒自殺に至ります。当時の人気作家として多くの読者から愛されていた芥川が35歳という若さで自ら死を選んだことは文豪の間にも大きな衝撃を与えました。

今回は日本文学界に多大な影響を与えた作家、芥川龍之介の生涯に注目します。

 

芥川龍之介、生誕。

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1892年3月1日、現在の東京都中央区明石町にて芥川龍之介は生まれました。一説によれば、龍之介という名前の由来は「生まれたのが辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたため」と言われています。

また、父親が42歳、母親が33歳という大厄の年に生まれた芥川には、旧来の迷信に沿って厄払いを目的に形式だけ捨て子とされたというエピソードがありますが、生後7ヶ月になった芥川は母親、フクの病が悪化したことにより母の実家、芥川家に引き取られます。生家を出たことは芥川にとって辛い出来事となります。

芥川は、教育熱心な伯母のフキに育てられます。伯母フキについて芥川は「伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出来たかどうかわかりません」『文学好きの家庭から』という回想文で語るほど、人格形成そのものに大きく関わった重要な人物でした。

芥川が10歳の時に母フクは亡くなりますが、幼くして優秀だった彼を引き取ろうと実の父、新原敏三ははたらきかけます。

一方で、敏三はフクの妹、フユとの間に子供を授かっていました。「よりによって、妻の妹に手を出すとは……」と新原家と芥川家はいがみ合い、最終的に芥川は叔父の芥川家の養子となりますが、幼少期の彼の心にこれらの出来事は暗い影を落としました。

敏三とフユの間に生まれた得二について、芥川があまり良い印象を抱いていなかったのは「弟と叔母が来たので、折角楽しみにして居た読書も十二分にできませんでした」という12歳の頃の日誌からもうかがえるでしょう。伯母フクの教育のおかげで早熟だった芥川と、なかなか成績が振るわなかったという得二。兄を見習えとばかりに家族から発破をかけられる得二にとっても、芥川は迷惑な存在でしかなかったのです。

成績優秀だった芥川は中学校を卒業後、無試験で第一高等学校(※)へ進学。さらにそのまま東京帝国大学英文科に入学します。芥川はこの時、「英文科へ行かうか外の科へ行かうかそれも今では迷つてゐます」と叔父への手紙の中で述べていますが、家族には誰もそんな芥川の意思に反対する者は現れませんでした。その理由は、『文学好きの家庭から』でこう語っています。

「父母をはじめ伯母もかなり文学好きだからです。その代わり実業家になるとか、工学士になるとか言ったらかえって反対されたかもしれません。」

また、この頃、芥川は生家にお手伝いとしてやってきた女性、吉村千代に恋心を抱きます。そして彼女に宛てて恋文を書きます。

ぼくはほんとうに 今では心のそこからお前を愛してゐる。お前はだまってゐるときも わらつてゐるときも ぼくにとつてはだれよりもかはゆいのだ 一生、だれよりもかはゆいのだ。ぼくのじゆうにならなくとも かはゆいのだ さうして、ぼくがお前をかわゆがると云ふ事が お前のしあはせのじやまになりはしないかと思つて心ぱいしてゐるのだ、ぼくは心のそこから おまへのからだのじようぶな事とお前がしあはせにくらう事をいのつてゐる

この手紙で芥川は主に平仮名を使って書いていますが、これは千代が小学校を卒業した程度の知識しか持っていなかったため。しかし芥川は、格式高い家の自分とお手伝いの千代は結ばれない運命にあることを十分に分かっていました。だからこそ、千代への手紙ではただ一心に彼女を思い、案じるような内容となっているのです。

※現在の東京大学教養学部の前身。

 

芥川、第二の恋愛。

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芥川は大学に入学した翌年の1914年、菊池寛や久米正雄をはじめとする一高の同級生たちと雑誌第三次「新思潮」を創刊。同時期に、幼馴染みの吉田弥生に恋愛感情を抱きます。

芥川の実家、新原家と吉田家は家族ぐるみで付き合いがあり、青山女学院の英文専科に通っていた弥生は芥川と学歴においても釣り合いが取れていました。ときには久米正雄を連れて弥生の家に遊びにいくほどであり、弥生に宛てた手紙の「眠る前に時々東京の事や 弥ぁちやんの事を思ひ出します」と慣れ親しんだ呼び方からも芥川と親密な関係にあったことがうかがえます。

順風満帆にいくかと思われたそんなふたりの関係は、ある日、弥生に舞い込んだ縁談で雲行きが怪しくなります。相手は吉田家と遠い親戚の陸軍中尉であり、弥生の両親は親戚からの強い薦めで弥生を嫁がせる気持ちを固めます。

好意を持っていたものの、具体的な行動に出ていなかった芥川は、突如として弥生への気持ちを強く意識するようになります。縁談がまだ本格的に進んでいないことを知った彼は弥生へプロポーズしようと思い立ちますが、弥生が芥川家と折り合いの悪い新原家と親しい家の娘であること、吉田家が芥川家よりも身分の面で劣っていたことなどを理由に芥川家の人々から激しい反対を受けます。

芥川はそんな失恋の経緯と率直な気持ちを、親友の井川恭への手紙で打ち明けています。

ある女を昔から知つてゐた その女がある男と約婚をした 僕はその時になつてはじめて僕がその女を愛してゐる事を知つた(中略)
僕は求婚しやうと思つた (中略)家のものにその話をもち出した そして烈しい反対をうけた 伯母が夜通しないた 僕も夜通し泣いた

芥川にとって大切な幼馴染みとの恋は、身分を重んじる考えにとらわれていた芥川家によって叶わなかったのです。家の呪縛によって自分の愛が終わってしまったことに芥川は思い悩むようになります。

 

失恋から創作へ。

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家族のエゴイズムから吉田弥生との悲恋を経験した芥川は、人間のエゴについて克明に描いた小説『羅生門』を執筆。当時は評判にもならず、創作においても結果が出ないことに葛藤を抱いたものの、ここで劇的な出会いを迎えます。

ある日、芥川の友人である久米正雄は、夏目漱石が主宰する“木曜会”帰りの岡田耕三に「自分と芥川も木曜会に連れて行ってくれ」と頼みます。そこでわざわざ芥川の名前が出されたのは、やはり強い友人関係が構築されていたからなのでしょう。

こうして芥川にとって重大な存在となる夏目漱石との出会いは果たされたのですが、初回の訪問時に芥川は「どうも先生に反感を持たれてゐるやうな気がした」という印象を回想『夏目先生』で語っています。その日、「“万歳”という言葉はなぜ言いにくいのか」という話題が出た時に芥川が「言葉の響きが出にくいから」という説を唱えたところ、漱石は嫌な顔をして黙ってしまったとのこと。以前より憧れていた漱石を前に、芥川は漱石の顔色を見て過敏に受け取ってしまうほど緊張していたことがうかがえます。

漱石を中心とした木曜会に足を運ぶうち、芥川たちは「ただ話を聞くだけでなく、作品を漱石先生に読んでいただきたい」と思うようになります。やがて菊池寛なども加わり、第四次「新思潮」を創刊。ここで芥川は『今昔物語』、『宇治拾遺物語』から題材をとったユーモラスな短編小説『鼻』を発表しました。

漱石によって高い評価を受けた『鼻』を書いたときの芥川は25歳。大学卒業を間近に、大人気作家の漱石から激励の手紙を受け取りました。このことは確実な自信を持つきっかけになったのです。

 

時代の寵児だった芥川の最期。

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大学を卒業した芥川は、横須賀の海軍機関学校の英語教師として教鞭を振るうこととなります。その傍らで創作の熱が冷めやらなかった芥川は初の短編集『羅生門』を出版します。次々と舞い込む執筆の依頼から一躍人気作家になろうとしていた芥川でしたが、佐藤春夫宛の手紙には「僕を流行児はやりっこ扱ひにするのはよしてください」と書くなど、あくまでも謙虚でした。

そんな芥川は1919年に教職を辞して大阪毎日新聞社へ入社。「出社の義務がなく、年に何回か紙面で小説を発表する。雑誌への発表は自由だが、大阪毎日新聞と東京日日新聞以外の新聞へは執筆しない」という条件のもと、勤め始めます。経済的に安定を得た彼は東京の田端にて執筆に専念。教職を辞して朝日新聞社へ入社、新聞小説の創作を行った漱石と同じく、芥川も作家として成功します。

同年には塚本ふみと結婚。吉田弥生との恋愛とは異なり、芥川家の後押しもあっての結婚でした。文は芥川より8歳も年下ではありましたが、素直で正直な性格に惹かれた芥川は熱烈な恋文を度々送っています。

文と鎌倉に構えた新居で暮らした1年あまりの日々は、芥川の生涯のなかでも最も幸福な時期だったと言われています。創作も順調であり、大阪毎日新聞の紙面で『地獄変』をはじめとする作品を発表していました。

ただ、そんな幸せな日々は長くは続きませんでした。当初は文の素直な性格に惹かれて結婚、新生活を待ち遠しく思っていた芥川でしたが、次第に理想と現実の間にギャップが生じていたことに気づきます。

「うちへ帰つてみると妻が君のところへ出すはずの手紙をいまだに出さずにあると云ふ 封筒の上書きがしてないからまだ出しちやいけないんだと思つたんださうだ 莫迦ばか してなきやしてないと云ふが好いや こつちは忙しいから忘れたんだと云ふと私莫迦よと意気地なく悲観してしまふ」

芥川はそんな文への苛立ちを、井川恭への手紙に綴っています。それまで何かと世話を焼いてくれる伯母がいた芥川は、文の気が利かない点が特に気に障ったのでしょう。

「知識や金のある女とは幸せになれない」と考えていた芥川にとって、どちらにもあてはまらない文は願ってもない女性です。しかし、文は創作における刺激やアイデアを求める相手にはふさわしくありません。妻が芸術を解さない点もまた、文に失望する理由のひとつでした。

そんな矢先に芥川は、歌人のひでしげ子と出会います。お互いに結婚している身ではあったものの、愁いを帯びた表情と文学の知識を有していた彼女に惹かれた芥川は、関係を持ってしまいます。

しげ子と芥川が関係を持ったのはたった一度でした。芥川は、しげ子が自分の弟子である南部修太郎とも関係を持っていたとを知るや否や、急速に気持ちが冷めていきます。それでも芥川との関係を続けたいしげ子は、この頃に出産した子供を「芥川の子」と主張。追い込まれた芥川は1921年、新聞社の海外視察員として中国出張をすることで体良く別れようと考えます。

これでしげ子から逃げられる……そう思って中国から帰国した芥川でしたが、次第に心身が衰え、病床へ伏すことが多くなります。病状が悪化する一方で、なかなか筆が進まない状況に不安を感じた芥川を襲った悲劇はこれだけではありませんでした。

1927年、芥川の姉ヒサが嫁いだ西川家で火災が発生。家には火災保険がかけられていたことから放火の嫌疑を受けたヒサの夫、西川豊が鉄道自殺を遂げるという事件が起こります。

掃除した際にアルコールを使用していたこと、漏電が火事の直接的な原因であったことが明らかになったものの、悲観した西川は自殺したと後に娘が『影燈籠 芥川家の人々』において記しています。

芥川は西川の残した借金の後始末と、姉一家を経済的に支えることを迫られます。自分がなんとかしなければ、家族だけでなくあらゆる人が食べていけない……そんなプレッシャーは、芥川の精神をさらに追い詰めていくのでした。

そして1927年の7月24日、芥川は睡眠薬を飲んで自殺を図ります。2017年3月に発見された、芥川の主治医・下島勲の日記には「(カンフル剤を)二百注射しておいて聴診器を当てゝみると音がしない」、「全く心臓が停止して絶望的である」と生々しい様子が記されています。(※)

芥川は久米正雄に宛てたとされる遺書『或旧友へ送る手記』で「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。」と書いています。経済的な悩みや体を蝕む病は、少しずつ彼に死を意識させていたのでしょう。

※出典:http://www.sankei.com/smp/photo/story/news/170331/sty1703310017-s.html

 

芥川の最後の恋人、片山廣子。

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出典:https://www.shogakukan.co.jp/books/09386474

実は芥川には、もうひとり、最後の恋人というべき女性との出会いがあったのです。これまでほとんど知られていませんが、その女性とは歌人でアイルランド文学の翻訳を手掛けていた片山廣子です。

1924年の夏、芥川は仕事と休養をかねて長野県の軽井沢を訪れます。軽井沢の旅館、つるやで彼は廣子に出会います。

歌作で知り合った芥川と廣子はもともと、手紙を交わすような親しい仲。そんなふたりは軽井沢で出会ったことをきっかけに、交流を深めていきます。

才色兼備で文学の知識も豊富である廣子は、室生犀星や堀辰雄をも魅了します。好色ですぐに快楽にふけるような男だった芥川も、怪我をした廣子に見舞いの句を即座に届けるほど夢中になるのでした。

「あなたと話していると魂が飛翔していく。希望に満ちた十九世紀のアラン島に舞い降りたようです」
廣子の横顔を芥川が眩しそうに見つめた。それが亡き夫との違いなのだと思った。亡き夫は、アイルランドの詩人に希望を見出すことはできなかった。目の前の生活が満たされていれば幸せになれる人間だったからだ。

結婚後、妻と芸術的なものを分かち合えなかった芥川と同じように、廣子も亡き夫と文学の知識を共有できませんでした。それもあってか、お互いに文学を愛する廣子と芥川が惹かれ合うのはごく自然なことだったといえるでしょう。

廣子との日々を芥川は「もう一度二十五歳になったように興奮している」と手紙につづっていますが、25歳とは芥川が漱石に『鼻』を絶賛された頃。創作に絶対的な自信を持ち、創作に意欲を見せた年のような情熱を廣子に見出したのです。

廣子は芥川の死を新聞で知って以来、世間との交わりを捨ててひっそりと生きていきます。その胸には、わずかな時間をともに過ごした恋情の相手、芥川との思い出がありました。やがて芥川が晩年に残していた詩、『越し人』から廣子は隠された思いを知ることに……この詳細は、『越し人 芥川龍之介 最後の恋人』にて述べられています。

 

没後90年を迎えた今だからこそ、知っておきたい芥川。

優れた作品を多数残した一方で、晩年には人間社会を痛烈に批判した『河童』や孤独と絶望に対する暗い心象風景を映し出した『歯車』などで生きることへの疑問を投げかけた芥川。死の8年後には友人の菊池寛が芥川の業績を讃えて創設した「芥川龍之介賞」は今、大変重要な文学賞となりました。

文学賞としての知名度はもちろん、時代を超えて今でも多くの人に愛される芥川龍之介。作品だけでなく、彼の生涯に注目することで新たな発見があるはずです。

初出:P+D MAGAZINE(2017/08/12)

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