五七五七七に萌えをぶっこめ!「#BL短歌」が広げる腐女子の世界。

なぜ腐女子は創作にむかうのか:BL短歌の批評性

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— 「やむにやまれぬ気持ち」とのことですが、腐女子は作品から得たきゅんきゅん感をそのまま二次創作にぶつけたい、という衝動が強いように感じます。この理由はなぜだと岩川さんはお考えですか?

岩川: う〜ん、なぜだろう‥‥‥。なぜだと思います?(笑)

— 質問を返されちゃった(笑)なんででしょう‥‥‥やっぱり、一般の人たちが見たり読んだりしている内容と、私たち腐女子が作品から受け取っている内容は違うんだよ!という気持ちがあるからじゃないですかね。

岩川: おそらくそういうことだと思います。二次創作をするときって、やっぱり、「BLとして読める」可能性が作品内にかならず手がかりとして残っているはずなんですよね。「黒子のバスケ」は部活モノで、「刀剣乱舞」も男子ばかりだし、「おそ松さん」は六つ子だったりして、その人間関係を読み込んでいけば絶対にホモエロティックなものだったり、ホモセクシャルな欲望って見つかるはずなんで。

たとえば「黒子のバスケ」をBL読みすることができる以上、漫画ではひとつの展開のあとに場面をすっ飛ばして次の試合にいってるけど、「絶対にこの合間に黒子と火神はセックスしてるじゃん!」って思うわけなんですよ。そういう手がかりの追求を積み重ねているんじゃないですかね。

— なるほど(笑)でも、作品のなかに「手がかり」を見つけていって、それを文脈化するというのが二次創作の方法なのだとしたら、それって立派な「批評」ですよね。

岩川: そういってくださると嬉しいというか、まさにそれこそが私がクィア批評の立場からBL短歌の実践に携わっている大きなポイントなんです。

これは2012年の3月に初のBL歌会をしたときのことなのですが、その歌会のなかで、すでに読まれた短歌の中から、BLとして読める短歌を見つけるということをやって、それが個人的にも重要な体験だったんです。

クィア批評を専門にしていることもあるのですが、すべての短歌作品は、「BL読みできる短歌」であると強く感じました。

— BL読みできる短歌、とはつまりどういうことでしょうか。

岩川: クィア批評の言葉を用いていうのであれば、一見するとBLと関係がなさそうな短歌であっても、その中に「見えない欲望」を見出せるということです。英語圏の文学を研究されている村山敏勝さん(故人)は、『(見えない)欲望へ向けてークィア批評との対話』(人文書院、二〇〇五)という著書の中で、「テクストの中に見えない欲望を引き出し、新たな解釈を引き出すような読み」の可能性について次のようにいっています。  

クィアな姿勢は、あらゆるものの再解釈を要求する――われわれの世界を規定しているヘテロセクシュアリティという規範を疑うことによって、同じ文字列がいかに違った姿を帯びることか。(村山 二〇〇五: 一五)

「短歌をBL読みする」とは、これまでに詠まれてきた短歌すべてについて、再解釈を行う実践です。もちろん、それぞれの歌が詠まれた文脈を忘れてはいけません。けれども、同時に、その歌を新しい解釈へと解き放つことでどのような世界が見えるのかということを、私たちは問い続けるべきなのだと思います。「BL読みする」という実践は、極めて動的に、一首一首へと介入し、今までとは異なる文字列を生み出す営みにほからないといえるでしょう。

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編集後記

「腐女子」という(もともとは蔑称として用いられていた)呼び名をあえて戦略的に自らの旗印にして、「腐女子には腐女子の表現がある」と高らかに宣言してみせたかのようなBL短歌の世界。

サブカルと文芸の枠を自由に行き来しながら、新しい解釈の地平へと言葉をひらいていくその表現には、腐女子ならずとも学ぶものが多いはずです。

私もまさにそのひとり。さっそく、フォロワー3人のTwitterアカウントで「#BL短歌」を詠んでみました。

これからも、その裾野を広げていくであろうBL短歌の世界に要注目です!

 

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[取材・撮影・編集]加勢 犬

初出:P+D MAGAZINE(2016/02/10)

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