団地を描いた映画・小説から浮かび上がる「夢・エロス・犯罪」【団地の今昔物語#1】

エロスのシェルターとしての団地

団地という建築物をインフラの観点から見るならば、団地の特徴はシリンダー錠、鉄のドア、厚いコンクリートの壁といった構成要素と、それらによって生まれる密閉性・堅牢性だといえるでしょう。『壁の中の秘事』のなかで、この団地のインフラ的特徴は、人間を単調な日常のなかに閉じこめ、他者や世界との関係を阻む〈牢獄〉のイメージにひきつけられていました。

他方で、この団地の居住空間としての特性は、(とりわけ1960年代後半以降)別のイメージとも結びついていきます。まずなによりも団地のコンクリートの壁で囲まれた部屋は、住空間に〈密室〉をもたらしたのです。この団地の密室性は、文学や映画の創作にとって大きなインスピレーションの源泉になっていきます。

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たとえば映画では、まず川島雄三監督『しとやかなけだもの(62年)があげられます。この作品は、団地に住むいかがわしい一家————娘を作家のめかけにだす父親がおり、努めていた芸能プロの金を愛人と謀って持ち逃げする息子がいます————の人々がだましだまされしながら渡世する姿が描かれます。興味深いのは、『しとやかな獸』が全編を通じて団地の部屋(公団晴海アパートがロケ地になっています)のなかで物語が進行する密室劇になっている点です。

密室劇でいえば、若松孝二監督『胎児が密漁する時』(1966年)もそうです。こちらは団地ではありませんがマンションの一室のなかだけで撮られています。子宮回帰願望と女性嫌いをあわせもつ倒錯者・丸木戸定男(マルキ・ド・サドのパロディ)という男が、女を監禁して拷問と調教のかぎりをつくすというものです。いずれの場合も、密室劇という形式や監禁の主題が、劇が展開される団地(マンション)の住空間としての特徴と分かちがたく結びついています。ここには団地という新しいインフラが創作現場のイマジネーションを強く牽引するさまが見てとれるでしょう。

団地における人びとの生活意識という点でいえば、コンクリートの個室やシリンダー錠に加えて、浴室も大きな意義があったといわれます。日本住宅公団の刊行物では浴室の意義について、次のように指摘されています。

 

多くの庶民がまだ浴室はおろか便所や台所すらも共用しなければならないような戦後の貧しい住宅状況に悩んでいる時、浴室のある住宅が庶民の手の届くところにもたらされたという実感は、入浴というような行為が持っているプライヴァシーの概念を日本の庶民の暮しの中にはっきりとした形で浮き上がらせた。

(『日本住宅公団10年史』日本住宅公団、1965年)

 

団地の誕生は「浴室のある住宅」を一般化し、プライヴァシー概念の大衆化に寄与したというわけです。しかし、浴室のある住宅がもたらしたものはプライヴァシー概念にとどまらないでしょう。たとえば、古井由吉の小説「妻隠つまごみ(1970年)は、浴室つきの住宅にはじめて出会ったときに個人の意識に立ちあがる陰影に富む印象をみごとに活写しています。

 

あの日、一時間近くかけて居間とダイニングキチンを隅々まで見まわして、さて帰ろうかと玄関口にでるまで、二人ともこの住まいの中に浴室があろうとは考えてもいなかった。玄関のわきにある水洗トイレを念のためにのぞきこんで、それからなにげなく並びを見ると、トイレの扉とほぼ同じ幅の扉がある。物置でもついているのかと扉に明けたとたんに、淡いピンクの明るさが目の前にこぢんまりとひろがった。二人とも呆気に取られた。畳一畳ほどの細長い空間の中に、人ひとりやっと入れるほどのホウロウびきの浴槽と、ピンクのタイルを張った洗い場と、鏡つきのの洗面場が、まるでホテルのミニチュア細工のように寸分の無駄もなくおさまっている。水道栓の位置も、ガス湯わかし器の位置も、ここより他にかんがえられないというようにぴしりと定まっている。窓のないかわりに、ガスの不完全燃焼を防ぐために、表に面した壁の上と下にそれぞれ細長い通風孔があって、どちらも人にのぞかれる位置でもないのに、鉄格子が細かくはめられて目隠しをしている。住まい全体のおおざっぱな造りに比べて、ここだけはじつに細かい神経が行き届いていて、何か淫らな感じだった。

(古井由吉『杳子・妻隠』新潮文庫、1979年、240頁)

 

この一節は、郊外のアパートに妻と同居している主人公の寿夫がはじめて下見にその住居を訪れた時を回想したものです。寿夫は、アパートの浴室のなかに、入浴という行為を外界から隔絶した密室のなかに閉じこめようとする緻密な意志を見てとり、そこに得も言われぬ「淫ら」さをおぼえます。密室としての浴室が生みだすのは、「淫らさ」という性的なものに対する意識です。しかも、ここでは浴室が惹起じゃっきするエロスは端的に私的なものとして位置づけられています。

団地というインフラは、コンクリートの個室、シリンダー錠つきのドア、浴室といった幾多の防壁を配することで、性的なものを私的なものとして囲い込む空間をもたらしといえるでしょう。性的=私的なもののシェルターとしての団地において、性は他者の視点から遮断され、外からはうかがい知れない隠されたものとなります。隠されたものはそれが隠されているということによって、いかがわしさ、淫らさを惹起させます。こうして、団地の堅牢性とそのなかで隠される性は、団地での性的営みに対する好奇心とイマジネーションを駆動し、さまざまな創作物のなかにその陰影を投げかけるようになります。

 

先ほど『白と黒』において、団地が同性愛者の逃げ込む場として位置づけられていることを見ましたが、このことは性的=私的なもののシェルターとしての団地の性格と通じる合うところがあります。『白と黒』における団地のインフラ的特性についてのまなざしは、次のような箇所にも見ることができます。

 

団地の各住居は厚いコンクリートの壁と、がんじょうな鉄のドアによって防衛されている。だからそのドアに鍵をかけてしまえば、なかでどのようなことが演じられていようと、外部からうかがいしることはできない。しかし、一歩なかへ入ってしまうと、各部屋をしきるものは昔ながらのフスマである。隣の部屋で演じられていることが、手に取るように聞こえるにちがいない。/タマキの両親はまだ若いのだろう。そういう夫婦がたがいに愛人をつくって、ときにはケンカをしたり、また仲直りをしたり、そういう気配をしじゅうフスマ越しにきかされていては、タマキのような妙に早熟な少女が、できあがるのはむりはないかもしれない。

(横溝正史『白と黒』、189−190頁)

 

ここでは、団地の若者グループのタマキという「妙に早熟な少女」の精神形成に、団地というインフラがいかに影響を与えたかが分析されています。痴話げんかの時も仲直りのセックスの時も他人の耳を気にしない夫婦の明け透けさと、フスマ越しにすべてを筒抜けに聞かされる娘の冷めきった精神との温度差が、〈コンクリートの壁のうち〉と〈フスマ越し〉というインフラ上の差異と重ねられて鮮明に浮かびあがってきます。

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団地における性という主題は、『白と黒』(58—59年)や『壁の中の秘事』(65年)にも見られましたが、より明確で大衆的なかたちをみせるのは日活ロマンポルノの「団地妻」シリーズにおいてです。その第一作は、1971年公開の西村昭五郎監督『団地妻 昼下がりの情事』です。この作品では、ひと組の団地の夫婦に焦点があてられます。妻で専業主婦の笠井律子は仕事人間の夫との夜の営みに不満をかかえ、団地生活のなかで時間と「女盛り」をもてあましています。隣人の女がこけし型のバイブレーターをもってきたり、性遊具の訪問販売が押し売りにきたりと、濡れ場のほかにも随所に団地という場を性的に潤色する演出がちりばめられています。

物語の筋としては、律子がかつて思いを寄せていた旧友との情事を団地の隣人の女に目撃され、そのことをネタに団地売春組織に巻き込まれていきます。夫は取引相手の外国人を口説きおとすために売春接待をもちいるのですが、図らずも外国人の床の相手に呼ばれてやってくるのが律子なのです。結局、夫に売春の事実が露見したことで律子の団地生活は破綻します。

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団地に暮らす妻たちがこぞって団地売春組織に関わっているという『団地妻』の設定は、住民個人の性向を越え、団地自体が性の巣窟となっているというイメージを喚起させます。また、60年頃のあこがれの住まいとしての団地イメージは後退し、むしろ団地生活に対する幻滅と価値の低下が目につきます。売春でもしなければ団地妻は羽振りのよい生活はおくれない、といった印象です。それは律子が売春の事実を夫に突きつけられたときに吐く、反発の言葉のなかに端的にあらわれます。

 

夫「なんてことだ、こともあろうにコールガールをやってたなんて。」

「いったいどういうつもりだ、言ってみろ!」

妻「私だってずっとがまんしてたのよ。」

「毎日毎日こんなコンクリートの箱の中で同じことの繰り返し、好きなものも買えず、食べたいものも食べられない窮屈な収入。」

「息が詰まりそうだわ。」

「ぶちたきゃ、いくらでもぶちなさいよ。」

 

最終的に、律子は売春に引き込んだ隣人の女を殺してしまい、団地を飛び出します。その際に、彼女はかつての旧友で不倫相手の桐村に助けを求めます。団地から飛び出した律子を助手席に、乗せて湖畔の山間地を走ります。この映画は、桐村が律子にフェラチオをさせながら走行する車が崖から転落して爆発する、という狂騒的でファンキーな結末をむかえます。

ともあれ、団地から逃走する際に援助を差し伸べるのが自動車に乗る男であるという点は当時の世相を反映しており、示唆的です。日本では、日産の大衆車サニーが発売された1966年が「マイカー元年」と呼ばれ、その後70年代にかけて日本社会は急速に自動車社会へと変貌していきます。公団が50年代後半から60年代前半にかけて手がけた大団地の多くは、鉄道沿線に立地し、電車で通勤することを想定して建てられていました。『団地妻』においても団地から通勤する律子の夫は徒歩で駅にむかいます。律子の夫が通勤で駅まで歩く道すがら、車に乗る桐村と出会うシーンがあります。電車通勤するサラリーマンの夫のしがなさと、車を乗り回し道楽のようにピンクテープ制作を手がける桐村の自由奔放さが明瞭なコントラストをなしています。とすれば、71年の『団地妻』では、団地と性というメインプロットの背後に、〈電車通勤族の団地からの自動車による逃走・解放〉というサブプロットを読み込むことができるように思われます。

まとめ

このように、50年代末から70年頃までの団地イメージには、まず〈あこがれの住まい〉と〈人間性疎外の悪しき場〉とのあいだのコントラスト————イメージ先行ぎみで、団地生活の実質とは乖離したコントラストですが————がありました。さらに、〈人間性疎外〉というイメージに近いところから、よりインフラとしての団地の性質に引きつけられるかたちで、〈エロスの隠れ家〉というイメージが現れてくるという展開が見えてきます。

この後、団地像の変遷は、より自動車社会化した社会を背景にしたイメージが入り込んできたり、〈故郷〉という団地居住者の心情に関わる主題が浮上してきたりといった展開をみせるのですが……続きは次回に譲るとしましょう。

初出:P+D MAGAZINE(2016/08/08)

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