【特集】太宰治の世界

「HUMAN LOST」という薬

文学の世界に生きよう――。
そう決心したが、うまくいかない。
人間が才能だけで食べていくために、
一度は味わう「地獄」の料理
修治がその苦い味から逃れるべく
手を出したもの。それは麻薬だった。

自殺未遂二度、共産党シンパ、大学生なのに結婚……文学レースに参加する新人としては資格充分。
ようやく、修治は再び走りはじめました。
しかも、素質はもともとあったものですから、新人としてはなかなかのスピードで、ひた走ります。
昭和八年一月に太宰治の名前で、修治は『魚服記』を発表してから、一躍新人ランナーとして注目を集めたのです。
しかし、この文学のレース。参加してみたらおわかりだとは思いますが、なかなかきついものがございます。
いわゆる一般の人生マラソンとはちがって、相手がちがうのです。才能という条件を持った男たちがひしめきあいながら走っているわけですから、今までのように、ちょっとスピードをあげた程度では、簡単に追いぬける相手ではないのです。
そんな強者たちが、なりふりかまわず走っているレース。妻の引き裂くような悲鳴、生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声、愛した女たちの罵倒を背に受けて、文学のランナーたちは走り続けています。
修治も走りはじめてから、その怖さに気づきます。ましてのこと、ペン一本で生活しなければならないということになれば、修治は他の先輩たちに比べれば、甘ちゃんです。何しろ、まだ実家から仕送りを受けているのですから。
しかも、その仕送りもいよいよ期限が迫ってきました。約束は大学卒業まで。ところが、留年に留年を重ねた結果、とうとう大学のタイム・リミットがきてしまったのです。
これで卒業できないとなると……修治は考えました。卒業しようとしまいと、どちらにしても、もう実家から金はもらえない。そうなると、働かなければいけない。新人だから、まだペン一本では食べていけない。修治はやむをえず、恥ずかしながら、就職をしようと心に決めます。
たとえ留年を繰り返したところで、東京帝国大学の学生。あえて就職してやろうと思った都新聞社。まさかの不合格でございました。
(なぜだ。俺は新人作家だぞ。それがペンを置いて、就職してやろうと思ったのに、なぜ、落ちる)
これは、プライドの高い修治にとって、最大のショックでした。絶対断られることがないと思っていた女に、金目当てで結婚してあげるといったら、「バーカ! 他に好きな人がいるもーん」といわれたようなものです。
それに何より、実家からの仕送りが途絶えることは耐えられません。

完璧に瞞着の陣地も、今は破れかけた。死ぬ時が来た、と思った。
(東京八景)

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連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:高野秀行(ノンフィクション作家)
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