【特集】太宰治の世界

幸福という名の「思ひ出」

修治は旅に出る。
心と体の病気を治すために。
そして、
そこで新しい自分を作りなおした。
結婚という銅鑼が鳴る。
それが再出発の門出の合図だった。

修治はここでまたレースを頓挫します。そして、すぐに悲観してしまい、3月中旬、鎌倉の山で縊死をはかったといわれていますが、ここでも死ねません。
この事件の直後、修治は急性盲腸炎で入院しますが、手術後、腹膜炎を起こしてしまいます。最悪ですね、ランナーとしての条件は。
ここで、修治はひとつの密かな楽しみを見つけます。それが薬でした。「パビナール」という麻薬性の鎮痛剤です。
(うん、これはいい)
麻薬ですから、常用したらいけません。いけないといわれれば、どうしても使いたくなるもの。修治は、何度も死のうとしているくらいですから、怖いものはありません。もし、怖いものがあるとすれば、それは現実です。ペンひとつで生きていかなければならないこと。もうたいして好きでもなくなった妻初代との不毛の生活。
それだったら、この薬を使い続けて常にハイな状況でいたい。修治は薬へと逃避いたします。薬物による現実逃避といいましょうか、まさに麻薬中毒のような状態になったのです。
ただ、不思議なことに、本人は体も精神もズタズタなのに、過去に書いた彼の作品が文学のレースを走り続け、『道化の華』『晩年』が第一回と第三回の芥川賞の候補作品になります。
自分を文学の道に進めた芥川龍之介を讃える賞、これは誰よりも自分がとるべきだ。自分以外に賞に値する作家はいない。そう決めこんだ修治に届いた知らせは、落選でした。
こうことごとく、自分のプライドを傷つけられていては、世の中が嫌になります。精神的なバランスを失った修治は、さらにパビナールをうち続けます。麻薬を使って、精神の安定をはかるしか、方法がありません。
しかも、妻初代がこの時、姦通します。古い言葉ですが、不倫よりも重い言葉です。これも、弱った修治の精神の傷に塩を塗りました。
もうどうでもいい。
修治はパビナールで現実から逃げ、効果が薄れると、現実に脅えまたうつ。こんな生活が続きます。
人間やめますか。パビナールやめますか。まさに修治、この時、人間失格でございました。
男も悪いが女も悪い。男と女はなお悪い。
谷川岳の山麓でふたりは死のうとしたという説もありますが、とにかく初代との七年間の同棲生活にピリオドを打ち、彼女は故郷の青森へ帰っていったのでした。

富士はよかった。月光を受けて、青く透き通るようで、私は狐に化かされているような気がした。
富士がしたたるように青いのだ。
(富嶽百景)

昭和十三年の秋といいますから、修治二十九歳の時でございます。
原稿も売れず、体の状態もすぐれない修治は、自分のこれまでの思いを一新すべく、旅に出ます。
もちろん、自分で旅をしようなどという「健康的」な発想を修治が持つわけがありません。甲州御坂峠の天下茶屋に滞在中の井伏鱒二から、誘われたからでございます。

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