滞米こじらせ日記~愛しきダメな隣人たち~ 桐江キミコ 特別編(小説) 三郎さんのトリロジー②
ヒョウタン池でゼニガメを飼う三郎さんは、
そんな悪人には見えなかった。
大学を出、就職してから結婚し、専業主婦になってからのこと、子供も手がかからなくなり、時間を持て余すようになって、人材派遣会社に登録することにした。
最初に派遣されたのは、高柳(たかやなぎ)商店という、創業明治38年の、紙製品の卸をやっている零細企業だった。
高柳商店は、4代目か5代目かの社長と専務と営業マン2人──営業部長と営業課長という肩書きが付いていた──と経理の事務をやっている銀子(ぎんこ)さんという、社長以外のだれよりも長く働いている女性と庶務担当の総勢6人の会社で、銀子さんの横に机を並べて、週に3回、事務の手伝いに来ることになった。
高柳商店は、銀子さんが「靴下をスリーシーズン履いてないといられない」と言ったとおり、日中でも暗く、冷え冷えとしていた。創業当時に建てられたビルは、しっかりした造りで、窓が小さく、いっときは倉庫として使っていたこともあり、長年閉め切っていたせいか、カビ臭い匂いがトイレの匂いやバラの芳香剤の香りと交互に流れてくるのだった。
銀子さんに事務の流れをひと通り教えてもらっていたときのことだ、窓の外で、どこか見覚えのある人が庭の掃除をしているのが見えた。
あ、三郎さんだ、と、記憶がよみがえった。十数年がたって、三郎さんの頭はすっかり白くなり、動作も以前よりゆるやかになっていたけれど、それは、まぎれもない三郎さんだった。三郎さんは、会社の裏庭にある睡蓮鉢(すいれんばち)をたわしでゴシゴシ磨いていた。
お昼の時間になると、「安くておいしいところがあるから」と銀子さんに誘われて、会社近くの定食屋に出かけた。その日の日替わりは、アジの南蛮漬けだった。アジも南蛮漬けも苦手だったけれど、「そりゃあ、何といっても日替わりでしょう、あなたもこれにしなさいよ」と銀子さんに押し切られ、断ることもできなかった。
銀子さんは、水をぐっと一気に飲み干すと、空のコップを持ち上げてウエイトレスに見せ、再び水がとくとくとつがれるのを待ってから、開口一番、
「うちの会社はもうだめだね。あなた、さっさと見切りを付けて今のうちにほかの勤め先、見つけなさいよ」
と言った。働き始めてまだ数時間もたっていないというのに、「今のうち」はないでしょう、と思ったが、もちろん、口に出しては言わなかった。
「なんせ、社長ったら、キシメンみたいになよなよしていて、優柔不断でしょう」
銀子さんは、熱いおしぼりを持て余し気味にして手を拭いてから、ついでに襟足も拭いた。
「その点、前の社長はワンマンですぐ人をクビにするし、怒鳴ったら近所のドラ猫まで逃げ出したってぐらいだけど、社員を引っ張ってく力はあったんだよね。いっときは、従業員が30人近くもいたんだよ。ここじゃ手狭で、駅前の一等地の立派なビルに本社を移して、みんなバリバリ仕事してたよね。なんせあんときは広告代理店みたいなこともやってたからね。ハワイに社員旅行したことだって何度かあったんだよ」
銀子さんは、おしぼりでテーブルの上もごしごし拭いた。銀子さんによると、高柳商店は、不況のあおりで不振が続き、リストラを重ねたあげく、駅前のビルを売って、創業時の場所に戻ってきたらしい。