【後編】昭和の大作家、丹羽文雄を知っていますか? –谷口桂子(作家)

戦前から1980年代半ばまで、息の長い執筆活動を続け、純文学から戦記小説、大衆小説、宗教小説など、幅広く作品を発表した人気作家・丹羽文雄。後進の育成に力をつくした文学界の功労者・丹羽文雄。これは同郷の作家・谷口桂子が、丹羽文雄の人となりについて、また丹羽文雄文学賞の創設に向けた思いを、前後編で書き下ろした熱筆エッセイの後編です。

若い頃から和装を好み、戦後、洋装が主流になっても変わらなかった (写真提供:崇顕寺)

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「丹羽文雄文学賞」創設への思い

さて、丹羽さんと私のご縁ですが、私の生家は丹羽さんの生家の崇顕寺の檀家でした。
 私が生まれる前からのおつき合いで、月参りに来ていただいた住職(丹羽さんの弟)にはかわいがっていただきました。御院さんと呼んでいましたが、私の妹によれば、井原西鶴に風貌がそっくりで、とにかく家を出て、東京に行きたがっていた私に、出奔して作家になった兄のことを聞かせてくれました。私が初めて知った作家は丹羽文雄でした。
 その世界に足を踏み入れるとは夢にも思わず、東京も作家という存在も遠い憧れだった頃の話です。

 丹羽さんのご縁は、東京に来てから拡がっていきます。
小説を書く前に、私は俳句を始めますが、きっかけは書店の新刊コーナーでふと手にした津村節子さんの『銀座・老舗の女』でした。津村さんと夫の吉村昭さんは丹羽さんの門下生で、『銀座・老舗の女』に丹羽さんは序文を寄せています。
 そこに登場する銀座の小料理屋「卯波」の女主人で、俳人の鈴木真砂女さんが私の師となるのですが、真砂女さんと丹羽さんは古いつき合いがありました。丹羽さんは真砂女さんをモデルに『天衣無縫』『帰らざる故郷』を書き、真砂女さんも「丹羽文雄秋の暖炉を黙し焚く」と句に詠んでいます。真砂女さんが五十歳で無一文で生家を出たとき、「卯波」の開店資金を貸したのも丹羽さんでした。
 丹羽さんの長女の桂子さんともお会いしています。
 週刊朝日の「夫婦の階段」というインタビューに、夫の本田隆男さんと登場いただきました。タイトルは、『「おままごと」の新婚生活から「父・丹羽文雄」介護の日まで』。アルツハイマーとなった父を介護していた桂子さんは、平成十三年に六十五歳で急逝します。

 

四日市市鵜の森公園にある、丹羽文雄の句碑(著者提供写真)

 

 八年前、丹羽さんの生誕百十年にあわせて、四日市市に丹羽文雄文学賞を提案した際、渡辺さんに賛同人になっていただきました。これ以上の適任者はいないと思います。
 おずおずとお願いに行った私に、「これは丹羽さん喜ぶ」と快諾いただきました。
 その折、丹羽さんがゴルフでエイジ・シュートをしたときの話を聞きました。新潮同人雑誌賞の受賞パーティーのあとで、初めて銀座のクラブに行ったとき、そこに丹羽さんがいたそうです。ホステスに囲まれてにこやかに会話する姿を見て、これが作家かと思われたようです。
作家が華やかな存在としてあった頃の、昭和文壇物語を渡辺さんに語りおろししていただく予定でした。文壇資料として貴重な記録になったでしょう。一年も経たずにお亡くなりになり、最後のご厚情を無にしてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 私はなぜ丹羽文学賞を提案したのでしょうか。
 ほんの片足、いや爪先かもしれませんが、私が同じ世界に足を踏み入れたことが大きいです。その世界の大変さは、実際にその世界に身を置いた人間でなければわかりません。インタビューで、作家というものがわかったつもりでしたが、話に聞くのと、自分が書くのでは大違い。新人賞は死屍累々といわれ、その新人賞さえとらずに入った私は、次の一冊を書くのが精一杯。十何万枚もの原稿など、めまいがするほどです。
 いま売れている作家はいても、丹羽さんのように私財を投じて後進を育成し、日の当たらない物書きにまで目配りした作家が他にいるでしょうか。奇跡のような業績と、後にも先にもない多大な社会貢献は、縁を受けた人間が伝えていかなくてはと考えました。

 

昭和29年頃の丹羽文雄

 

 私はできる限りのことをしました。
 石川県白山市の島清恋愛文学賞は三百九十五万円で運営していることも調べました。下読みの手配や仕込みをするのも知っています。地元の新聞社に共催を依頼することや、文芸誌の広告は値切れることなど、事細かな助言も得ました。
 それらを逐一窓口になった人に伝えましたが、現場の担当者にどこまで伝わっていたでしょうか。
それだけではありません。文学賞の創設にあわせ、名古屋の民放テレビ局に、丹羽文雄のドキュメンタリー番組を提案しました。
 社長と面識があるとはいえ、まず手紙を書き、お願いすることから始まります。活動はすべてボランティアどころか、手土産などはもちろん自己負担です。賛同人のお願いも、私個人の思い入れでしていることなので、編集者に頼ってはいけないと思いました。
 さらに、門下生の瀬戸内寂聴さんらに賛同人になってもらい、「丹羽文雄の業績を伝える会」を作ろうと考えました。一連のプロジェクトには私の人脈を総動員しました。この機会を逃したら、あとはない。私ごときが丹羽さんの業績を叫んでも、誰も耳を貸してくれません。著名な丹羽文雄関係者がかろうじて健在のいまこそが、最後のチャンスだと焦りました。
著名人の応援なしに四日市市だけで文学賞を創設しても、反応はわかりませんから、遺族はそっとしておいてほしいといったかもしれません。しかし渡辺さんが賛同人となり、宣伝も完璧にして、遺族がノーというはずがありません。四日市市にとっても千載一遇のシティープロモーションになったはずです。
 結局、四日市市が私に話を聞きに来ることはありませんでした。

 不成立になった丹羽文学賞を、もう一度やってみたら?
ある人にいわれて、私はすぐに返答ができませんでした。そうしたほうが、谷口さんがこれまで頑張ってきたことが報われるといわれて考え込んでしまいました。私は燃え尽きていました。しかしどういう巡り合わせか、今年、丹羽門下の吉村昭さんについての私の本が出版されることになっています。
 崇顕寺の檀家の娘に生まれた天命、使命というのは大袈裟かもしれません。私と名前が同じ、長女の桂子さんに背中を押されているような気はします。父が大好きで、結婚するなら父のような人と、本気で思っていたとインタビューで語っていました。私とは違った意味の無念さで、その父親より先に逝くのはどれほど心残りだったことでしょう。
 生誕百二十年に向けて、いま少し頑張ってみようと、前向きになりました。今度こそ、よき協力者に出会えますようにと念じながら。

 

生家・崇顕寺そばの東海道沿いに立つ、丹羽文雄生誕之地の碑(著者提供写真)

 

谷口桂子(たにぐち けいこ)
作家、俳人。三重県四日市市生まれ。東京外国語大学外国語学部イタリア語学科卒業。著書に小説『越し人 芥川龍之介最後の恋人』、『崖っぷちパラダイス』(小学館)、『一寸先は光』(講談社)、インタビュー集『夫婦の階段』(NHK出版)、評伝『愛の俳句 愛の人生』(講談社)、ノンフィクション『祇園、うっとこの話 「みの家」女将、ひとり語り』(平凡社)などがある。
 

 

書籍紹介

丹羽文雄『親鸞』(P+D BOOKS 全7巻)
https://www.shogakukan.co.jp/books/09352209
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谷口桂子『越し人 芥川龍之介最後の恋人』
https://www.shogakukan.co.jp/books/09386474
越し人_書影

 

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