思い出の味 ◈ 南 杏子

第36回

「英国人のソウルフード」

思い出の味 ◈ 南 杏子

 英国人のソウルフード、フィッシュ&チップスは、私にとっても思い出深い食べ物だ。夫の留学に同行し、英国で長女を産んだ。慣れない英語でドクターやナースとのコミュニケーションに汗をかきつつ、夫と二人きりで育児に奮闘した。

 赤ん坊連れで気取った店に入るのは気が引け、利用したのがテイクアウトだ。特にフィッシュ&チップスは貴重な魚料理であり、気楽さもあってよく食べた。私たちは「フィシュチー」と呼んだ。

 ざっくり切ったポテトのフライがある店は当たりが多い。ポテトそのものの美味しさだけでなく、魚の身がふっくらとして大ぶりだったりする。ポテトの上にタラの衣揚げを載せてから大きな包装紙でくるんで渡される。包みの一方は開いており、はみ出しそうなフィッシュとチップスに、塩とビネガーを振りかける。好みもあるだろうが、英国のビネガーは、日本の酢のようには酸っぱくないので、これでもかというくらいたっぷり振りかけてちょうどいい味付けになる。

 うとうとする娘を抱き、スカボローの海を見ながら海岸で食べた。少し食事ができるようになった娘には、フライの衣をはずし、タラの身をほぐして食べさせた。夫といろんな話をしながら食べ、よく笑った。数年後に二度目の英国暮らしを送った時は、娘が小学生になっており、補習塾の帰り、深夜に三人で店に寄った。空腹の娘は車の中で食べ、すぐに眠ってしまったものだ。計四年間の英国生活で、美味しいフィシュチーの店を探すのは上手になった。ロンドンのメリルボーン駅前、マダム・タッソー蝋人形館からほど近いシー・シェルという店もその一つだ。

 今年二月、大学を卒業した娘が就職する前に、幼少期を過ごした英国を旅した。評判店のテーブルを予約し、ソウルフードをゆっくり味わったが、いずれも「思い出の味」とは少し違うような気がした。

 最初の出合いから二十年以上が過ぎている。店の味は変わらぬにしても、私の体は油料理が苦手になったのかもしれない。いや、それ以上に、あの頃のワクワクする毎日の生活こそが、私たちのフィシュチーをより美味しくしていたのだ。


南 杏子(みなみ・きょうこ)
1961年徳島県生まれ。東海大学医学部卒業、内科医。2016年『サイレント・ブレス』でデビュー。『ディア・ペイシェント』はNHKテレビで放送。近著に『いのちの停車場』『ブラックウェルに憧れて』がある。

〈「STORY BOX」2020年10月号掲載〉

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