連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第29話 桐野夏生さんとEdgar Award
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名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第29回目です。今回は、人気作家・桐野夏生さんが日本ペンクラブの会長を務めていることにまつわるエピソード。世界には多くの文学賞があり、授賞式はとても華やかなもの。担当編集者ならではの視点で、当時の出来事を振り返ります。
日本ペンクラブは、国際ペンクラブの支部のような存在で、言論の自由や表現の自由を守り、文化の国際交流をはかる機関である。ペンクラブはアルファベットでは、P.E.N.CLUBと書かれるが、そのP.E.N.のPはPoet(詩人)、Playwriter(劇作家)、EはEditor(編集者)やEssayist(随筆家)、そしてNはNovelist(作家)を意味している。
余談ではあるが、出版の自由を守るために、編集者も会員になれるので、私も長い間、会員の末席をけがしている。作家の井上ひさしさんが会長になった時に、その井上さんから、「今度会長になるので、編集委員長を引き受けてほしい」と、私の自宅に電話があった。作家自ら編集者の自宅に電話をかけるときは、原稿が書けないなど、あまりいい話ではないことが多い。大変な重い役目を引き受けろという要請は、どちらなのだろうとチラと思ったが、返事を待っている電話口の井上さんには、「お引き受けいたします」と言うしかなかった。
当時の編集員会は、Japanese Literature Todayという、日本語と英語とフランス語の3ヵ国語で、その年の日本の文学状況を紹介する雑誌を編集出版して、各国の図書館や大学や関係機関に送ることが主な仕事だった。
結果的にはとても面白い経験をしたし、勉強にもなった。井上さんには声をかけてくれたことに感謝している。
![連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第29話 桐野夏生さんとEdgar Award 写真](https://shosetsu-maru.com/wp-content/uploads/2025/04/secret-story_29_image.png)
日本ペンクラブの初代会長は、島崎藤村であり、いまは18代の会長を作家の桐野夏生さんが勤めている。
その桐野夏生さんは、はじめはジュニア小説で作家としてのキャリアをスタートしたが、その後、ハードボイルド的なミステリー作品を書き出し、『顔に降りかかる雨』で、江戸川乱歩賞を受賞し、『OUT』で、コンビニなどで販売される弁当工場に勤める主婦たちが、犯罪に手を染める過程を克明に描いて新しい境地を拓いた。
平凡に見える東京郊外の主婦4人は深夜勤務の弁当工場で働いているが、4人のリーダー格である雅子は夫とティーン・エイジの息子から完全に疎外されていて家庭崩壊を感じ、邦子は肥った自惚れの強い女だが、多額の借金やカードローンなどの多重債務に苦しみ、そのために愛人から捨てられている。ヨシエはシングルマザーで、脳梗塞から認知症になっている姑の介護に明け暮れ、32歳の弥生はふたりの幼児の母親で、酒乱でギャンブル狂の夫の暴力に耐えている。
このように、4人の女たちはそれぞれに、得体の知れぬ欲求不満を抱えていて、どこかに抜け出したいと思っているのである。
そして、ドメスティック・バイオレンスを受けて、耐えかねた弥生が、夫を殺してしまう。
このことを打ち明けられたことから、雅子たちは、完全犯罪を企むことにして、そのときから彼女たちの運命が大きく変わっていく。出稼ぎに来た日系のブラジル人の生活や、新宿のヤクザの暗い世界や、経験豊かな刑事たちと犯罪には経験のない4人の平凡な主婦たちとの攻防などがきめ細かく書かれ、物語は想いもよらぬ展開を繰り広げる。
たしか、文芸評論家の柄谷行人さんが、「新しいプロレタリア文学の誕生」というようなことを言って絶賛したと記憶している。
作品は、1998年の日本推理作家協会賞を受賞し、80万部を超すベストセラーになった。
『OUT』は、スティーブン・スナイダーさんによって、英語に翻訳されて、2003年に講談社インターナショナルから出版される。
スティーブン・スナイダーさんは、日本文学の研究者で、1991年に、永井荷風の研究により、イェール大学で博士号を取得し、バーモント州のミドルベリー大学の教授を勤めている。著書に「Fictions of Desire : Narrative Form in the Nagai Kafu」(『欲望の虚構─永井荷風の物語形式』2000年 University of Hawaii Press刊)などがあり、翻訳作品には『OUT』以外に、小川洋子さんの『The Diving Pool : Three novellas』(『ダイヴィング・プール』2008年 Picador刊)や、同じく小川洋子さんの『The Housekeeper and the Professor(『博士の愛した数式』2009年 Picador刊)、村上龍さんの『Coin Locker Babies』(『コインロッカー・ベイビーズ』1995年 講談社インターナショナル刊)などがある人である。
この翻訳された『OUT』が、2004年のエドガー賞長篇賞(Edgar Award Best Novel)にノミネートされたのである。この賞は、推理作家として有名なEdgar Allan Poe(エドガー・アラン・ポー)の偉業を讃えるために、日本の推理作家協会と同じようなアメリカのMystery Writers of Americaが主催している賞である。
アメリカのミステリー界のアカデミー賞とも言われるエドガー賞は、アカデミー賞と同じように、幾つもの部門に分かれている。
それは以下の通りである。
Best Critical/Biographical Work(ベスト評論/伝記賞)
Best Episode in a TV Series(ベスト・テレビ・シリーズ)
Best Fact Crime(ベスト犯罪実話)
Best First Novel(ベスト処女作)
Best Juvenile(ベスト・ジュヴナイル)
Best Motion Picture(ベスト動画)
Best Paperback Original(ベスト・オリジナル・ペーパーバック)
Best Short Story(ベスト短篇)
Best Young Adult(ベスト・ヤング・アダルト)
Mary Higgins Clark Award(メアリ・ヒギンズ・クラーク賞)
Special Edgars(スペシャル・エドガーズ)
The Grand Master(ザ・グランド・マスター)
The Raven Award(ザ・レイブン・アワード)
The Robert L. Fish Memorial Award(ザ・ロバート・L・フィッシュ記念賞)
Best Novel(ベスト長篇賞)
この年のベスト長篇賞には、『OUT』と、Ian RankinのResurrection Men(イアン・ランキン『甦る男』2003年 ハヤカワ・ポケット・ミステリ刊)、Jacqueline WinspearのMaisie Dobbs(ジャクリーン・ウィンスピア『夜明けのメイジー』2005年 ハヤカワ・ミステリ文庫刊)、Ken BruenのThe Guards(ケン・ブルーウン『酔いどれに悪人なし』2005年 早川書房刊)の4作品が候補になっている。
日本人作家としては初めてのノミネートで、「ワシントン・ポスト」は「日本女性のステレオタイプを壊しながら、日本社会の暗部を描いている」と評した。
アカデミー賞でお馴染みのように、エドガー賞も候補作の著者や編集者や出版社などが集まって、選考の結果を聞くようなシステムになっている。エドガー賞の場合は、アカデミー賞と違って、10数人が座れるような大きい丸テーブルの権利を買い取って、そこで食事をしながら、結果の発表を待って、一夕を過ごすようになっている。はっきりした記憶はなくなったが、20万円くらい払ったのではなかろうか。当時、文芸局の担当役員だった野間省伸さんに、「アメリカの文学賞の発表の仕方を見てみましょう、これからの参考になりますよ」とそそのかして、お金を出しやすくしてもらった。
私たちは、著者の桐野夏生さんや野間役員、当時の講談社のニューヨーク支社の社員たちと、会場のグランド・ハイアット・ホテルに行った。テーブルに着くと、安上がりに、チキンを使ったメイン・ディッシュとパンはついていて、ワインは別料金だった。
その日の午後、桐野さんは、ニューヨーク支社の女性社員に案内されて美容院に行って、あちら仕込みの美容を受け、まことに凛々しい作家に変身した。
進行が進み、最後にBest Novel(ベスト・ノベル賞)の発表があった。固唾を飲んでいるうちに、受賞作はイアン・ランキン(Ian Rankin)さんの『甦る男』(Resurrection Men)に決定したと発表された。
私が残念がったのはもちろんであるが、のちに、どの作品も優れていて、選考は紙一重の差だったと聞かされて、いくらか愁眉を開いたものである。
その後の、作家としての桐野夏生さんの活躍振りは周知の通りであるから、特に書かないことにする。
ただ、あの席上で、司会者が、突然、「講談社の海外版権の世界での目覚ましい活躍を支えているのは、本日会場にいらしている野間省伸氏のおかげである。野間さん、起立願います」と言って、テーブルに座っているみんなを慌てさせたことを書いておきたい。
ちょうど、このとき、喫煙家の桐野夏生さんと野間省伸さんは、ふたりして隣室の喫煙室に行っていて、テーブルにはいなかったのである。私は、どうせ誰も野間さんのことを知るまいと心を決めて、野間さんの代わりに立ち上がり、会場にいる全ての人に向かって何度かお辞儀をして、温かい拍手を受けたのである。
受賞したイアン・ランキン(Ian Rankin)の『甦る男』(Resurrection Men)は、ハヤカワのポケット・ミステリー・シリーズに収められている「リーバス警部シリーズの13番目の作品で、原本は2003年に、Little Brown社から刊行されている。リーバス警部が警察官再教育施設に送り込まれると、そこには、同じく施設送りされた5人の警官がいた。昔の未解決事件と、今起こっている事件が絡み合う複雑な構成になっている力作である。Resurrectionとは再教育施設で甦るという意味で、なるほど、『OUT』と賞を張り合うだけの作品である。
【著者プロフィール】
宮田 昭宏
Akihiro Miyata
国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。